2011年08月23日

開高健、心の闇の正体(2/4)


《2》
 さて。
 本稿を書くキッカケは、仲間秀典著『開高健の憂鬱』を読んだからである。
 仲間秀典氏は公衆衛生が専門らしいが、作家の精神病を扱った『開高健の憂鬱』(文芸社 2004年)をものしている。これは開高の作品からその精神病理を読み解いた著作だ。
 仲間氏の専門が精神医学ではないからかもしれないが、既存の精神科医師らの分析を細かく紹介しているにとどまっているように思える。なぜなら彼もやはり認識とは何かが解けていないからであるが…。

 仲間氏の手法は、「病跡学」というそうで、端的には天才と狂気を関連づけようという試みである。その研究対象に、開高健が選ばれ、縷々作品を取り上げ、さまざまな評論家たちの分析を紹介している。

 しかし、日本の作家たちの多くは、明治以降、どれもこれも精神病に関わる人間ばかりである。夏目漱石もかなり心を病んでいた。胃が悪くなったのは精神的ストレスのせいであろう。芥川龍之介は、自殺にまで追い込まれるほどの病が進行してしまった例である。
 
 どうも一般的に言って、芸術家なるものはみんななにがしか狂気を抱えているものなのではないかという“常識”があるような気がするほどである。
 たとえば絵画におけるゴッホとかダリとか、音楽におけるモーツアルトだとか、枚挙にいとまがない。天才と狂気は紙一重、みたいな言われ方をする。

 芸術家は要するに自己の感覚を至上のものとして、世に問うものであり、その作品が絵であれ音楽であれ文芸であれ、鑑賞に堪え得るものなら、世間の認知を受けることができる。
 それが狂気であっても、鑑賞に堪えさえすれば、「芸術」たり得る。
 そもそも芸術家は(とくに画家と音楽家は)、貴族のお抱えとしてスタートしているのだから、狂気だろうがなんだろうが、パトロンである貴族が満足すれば良かったのであろう。

 文芸の場合も、フィクションはとくに作家の創り話であって、要はありもしない空想をこねくりまわして、本当の話らしく書いているものだから、まともじゃないとは言える。自分が億万長者でもないのに、あたかも億万長者になったかのような小説を書いても許されるのだ。つまりは嘘つきである。それでも鑑賞に堪えれば、世間の評価を受ける。
 すなわち、文芸には根本的に狂気を孕んでいるのかもしれない。

 しかしながら開高の場合の特異性は、その作品が精神変調とリンクしている点にあるのだろう。加賀乙彦氏はこう解説する。
 「躁病性の輝くような、溢れるような緊張感の高い文体で生命の躍動感に溢れた世界を描くと同時に、鬱病性の虚ろな、抜け殻のような倦怠感を基調とする文体で物憂い疲労感に満ちた日常も表現するという、作品群の振幅の大きさ」(「開高健と躁鬱」『開高健 その人と文学』所収)

 冒頭の小説『夏の闇』はまさに鬱の状態をそのまま描いたものだろう。私はそんな鬱のものなど読みたくなかった。躁状態の作品のほうがなんぼも面白かった。
 しかし、その開高文学を、「躁と鬱の両極端があったればこそ、晩年になると珠玉になった」と評価する向きも多かったようである(精神科医・高橋英夫氏)。

 そう言えることもあろうが、鬱状態を凝視し続ける恐ろしさにはいささか辟易を覚える。開高は、小説を書くために自宅に居て座っていると、鬱になってくるから、釣りと外国旅行に出かけることで鬱病の克服を図っていたのはおそらく衆目の一致するところで、 仲間秀典氏も『開高健の憂鬱』で、多くの評者の言葉を紹介している。

 開高自身もあらゆる作品で自分の鬱を告白している。それで稼げるのだから良い身分だといえなくもない。彼はただのお調子者ではなく、元来が内面の苦しみにのめり込むタイプなので、心に奥行きが生まれ、作品にも奥行きが生まれたとは言えよう。
 ただ、その鬱が度を超していると思われる。

      *         *       *
 
 新進作家としてデビューした頃、「たちまちもみくちゃにされるままとなり、三作目の『裸の王様」で芥川賞をもらったまではよかったが、あと『なまけもの』という一作を書いたきり、ひどい抑鬱症に陥ちこみ、ウイスキー浸りとなって、書けないばかりか、肝臓がへたばってしまった』(「頁の背後」『開高健全集 第22巻』)
 
 「何年も以前のことになるけれど、ノイローゼになったのである。これは、はじめのうち、芥川賞をもらってドサクサさわぎに巻き込まれ、書キタクナイ、 書キタクナイ、と泣きつつ局部をおさえて逃げまわっているうちに、半真性になってしまった。

 モノが書けないばかりか、頭もなんとなくかすんでにぶくなり、眠たげな蒙古系の眼をうっすらとひらいて町を歩いていると、いつもあまり明るく見えない世のなかが、なにからなにまでまっ暗に見えてならなかった。神経だけがむやみにささくれだち、つまらないことにそよいで分裂を起こした。」(『食後の花束』)


     *      *     *

 デビュー当時の開高は、サントリー宣伝部の花形社員で多忙を極めていたようで、そこへ望んでなったとはいえ芥川賞作家としての仕事も抱えるようになった。サントリーのトリスなどの宣伝コピー(たとえば「人間らしくやりたいナ」とか)は今日も名作の誉れ高いし、「洋酒天国」の編集者としての腕は今みても抜群だった。
 言ってみれば持て余すほどの才能を絢爛と開花させていたのだ。

 その上に日本文学を背負って立とうかという野望をひっさげて文壇に登場すれば、それこそ開高の言う「もみくちゃ」になって当たり前だった。

 むちゃな生活をしたものだった。緊張と集中がそんなに続けられるはずもなく、食事も不規則で栄養が十分でなくなり、仕事柄酒に浸るチャンスがあるとなれば、鬱に陥ちいるのも当たり前じゃないかと言いたくなる。本当はまず開高は生活過程を正すべきであったのである。
 それを酒に逃げ、愛人に逃げ、グルメに逃げ、海外に逃げ…あげく抑鬱状態になった自分をひたすら見つめてどうする、ということなのだ。

 開高の場合は、真性の鬱となって終生苦しめられることとなったようだが、決して医者にもかからず、薬も呑まなかったという。気力だけで「つきあった」というべきか。
 彼の『輝ける闇』『夏の闇』『花終わる闇』の“闇三部作”の「闇」とは、鬱になって見つめる自分の心の闇なのであろう。

 開高は、最後は食道癌で亡くなるのだが、これは酒とグルメの果てであった。外食で、しかも鯨飲馬食ばかりしていたことは、以前のブログで取り上げたことがある。ちゃんとした食事をして、昼夜逆転の乱れた睡眠をやめ、運動を怠らなければ、鬱に苦しむことは少なくなったであろうに。
 





posted by 心に青雲 at 06:59| Comment(3) | 評論 | 更新情報をチェックする

2011年08月22日

開高健、心の闇の正体(1/4)


《1》 
 作家・開高健の傑作とうたわれる小説『夏の闇』にはこんな記述がある。

 「私はすりきれかかっていて、接着剤が風化して粘着力を失い、ちょっと指でついただけでたちまち無数の破片となって散乱してしまうように感じられてならない。いつか女が駅前広場の早朝の酒場で外国暮らしをしていて“人格剥離”が起きるとつらいといったと思うが、私には人格と呼べるほどのものがあると思えないのに、“剥離”だけがひどく感じられる。」

 「気がついたときはいつも遅すぎて私は茫然として凍え、音も匂いもない荒涼の河原にたって、あたりをまじまじと眺めている。そうでなかったら、酒瓶や、皿や、コックの頬肉や、ピカピカ光るガラス扉や、その向こうに見える巨大なビルなどが、壮大で無慈悲な塵芥の群れ、手のつけようのない屑と感じられ、私は波止場におりたったばかりの移民のようにたちすくんでしまう。」

 「子供のときから私は名のないものに不意をうたれて凍ったり砕けたりしつづけてきた。いつ剥離するかしれない自身におびえる私には昂揚や情熱の抱きようがなかった。情熱は抱くのもおそろしいがさめるのもおそろしかった。」

……

 『夏の闇』は、簡単に言ってしまえば、主人公の「私」が休暇でパリに行っている間に、昔の恋人だった「女」とアパートで過ごす一夏のありようを描いている。主人公の「私」はほとんど開高自身を色濃く投射していると見えるが、ほとんどベッドの上で過ごしていて、眠るか食うか「女」と情事にうつつを抜かすかしているという話である。

 こういった記述は、小説(フィクション)とはいいながら、彼・開高の心の状態を描いていると見てよかろう。なぜなら、開高健は釣りやグルメなどのエッセイでもしきりにこういう自分の精神状態について記述していたからである。小説はだから私小説に近くなった。

 私は開高健のファンだったけれど、それは主に初期の「非私小説」つまり「外へ向かって書いた作品」やルポの類いであって、彼がヴェトナム戦争取材以降、内部の己にこだわって小説を書くようになってからのものは評価できなくなった。
 引用したような心の闇を、私は共有し得なかった。

 ずばり言えば、精神病者の繰り言には付き合いきれない、という思いである。
 開高は己の心の闇を、科学的に(医学的に)分析することなく、華麗な修辞の実力で描写してみせた。実に描写の巧みさには感心するけれど、開高のような“人格剥離”などとはこちらは無縁だった。

 その開高の心のありようを、近代日本人の置かれた精神状況と読み替えて評価する向きは多かったのかと思う。だから『夏の闇』が傑作と言われたのだろう。
 文芸評論家の山崎正和氏は、『曖昧への冒険』(新潮社)で、開高の『夏の闇』を日本人の精神史的な観点から捉えて激賞していたけれど、私はあまり共感できなかった。

 山崎正和氏は開高に「なんでヴェトナム戦争に関わって取材やエッセイ、小説を書くのか」と激しく非難していたのに、一転『夏の闇』は絶賛していた。山崎にしてみれば、作家が自己の内面の「なぜ書くのか」を離れたところで、いうなれば自分と関係ない他国の戦争なんかにうつつを抜かしているのは正道を逸していると言いたかったのだろう。戦争を書くのなら記者か国際問題評論家などの仕事じゃないかというのだろう。

 しかし開高は『夏の闇』で自己の内面を凝視した作品をものしたので、山崎に評価されていたのである。開高は「山崎正和の認識論はすばらしい」みたいな感謝の仕方をしていた記憶がある。
 「山崎正和の認識論」という言葉に大変違和感を覚えたものだった。もうだいぶ以前のことになってしまったが…。それは端的には、山崎も開高も、認識とは何かを何も説かずに、それこそ曖昧なままに解釈を重ねていこうとしていたからであった。



posted by 心に青雲 at 07:00| Comment(1) | 評論 | 更新情報をチェックする

2011年08月09日

『自主防衛を急げ!』の中途半端


 伊藤貫氏は若手の国際政治アナリストということなのか、最近ちょっと売り出し中の人物である。YouTubeでもしゃべっているのが見られる。http://www.youtube.com/watch?v=mqdPWx6JOjE
 東大経済学部を卒業後、アメリカに留学してコンサルタント会社に勤めつつ25年をワシントンで過ごしたそうだ。

 ワシントンに在住して、アメリカ政府の高官とも知己を得、友人知人に経済や政治に一家言あるアメリカ人とつきあっているという。だからなかなか内情に詳しい。

 私は、伊藤氏のことは日下公人氏との対談本『自主防衛を急げ!』(李白社)で読んで知った。この本はもっぱら伊藤氏がガンガンしゃべりまくり、日下氏は聞き役に徹しているような印象である。

 伊藤氏は日米同盟の虚構をさまざまなアメリカ政府高官の証言(本音)から読み解いていて、それはそれで参考にはなったが、この人はユダヤ国際金融資本によるアメリカ支配、あるいは世界支配という視点が完全に欠落している。

 だから新聞報道の裏側を解いてみせている程度の知識である。日本のマスメディアが報じる世界(アメリカのこと、中国のことなど)は、アメリカ“政府”の本音を知らずに報道している、という、いわば“表”のところでの話に終始している。
 日下公人氏も同じくユダヤによる世界支配を捉えてはいないので不満はあるが、世界や日本を見る目が弁証法的なので、氏の評論はよく読む。

 だが伊藤氏は、例えば日米同盟はアメリカ“政府”が主導していると思っているようだ。表向きはそうだろうが、本当はユダヤ国際金融資本がアメリカ政府を動かしているのである。そこにいっさいの言及がない。
 
 アメリカの歴代大統領だとか、キッシンジャーだとかが世界を動かしているとみている。そうじゃないのに…。

 今回の世界同時株安だって、これはアメリカやEUの政治の失敗によるものではないのだが、新聞は決して、これを裏で操るユダヤ資本のことには言及しない。G7で協調すれば収まるかのような書き方をする。
 こんな騒動はみんなユダヤ金融資本が仕組んだ八百長だとは、絶対に書かない。

 伊藤氏もそういう立場である。世界は今も「バランス オブ パワー」なのだと言う一点張り。バランス オブ パワーは表の顔であって、裏にユダヤ国際金融資本に指が動いていることを抜かしていくら喋っても、それはむなしいだけである。

 だから『自主防衛を急げ!』は読んでいて、いたく退屈であった。伊藤氏はとっておきの、誰も日本人が知らない裏話を自慢げに喋っているが、これでは画龍天晴を欠く、である。

 私は「日本は核武装すべきである。それが戦争抑止力になり、経済的安全保障にもなる」という伊藤氏や日下氏の主張には賛成であるが、日本もアメリカも中国もロシアも、本当はユダヤによって作られて檻の中でにらみ合っているだけなのだという視点がないのがどうしても納得できない。

 鬼塚英昭氏の近著『ロスチャイルドと共産中国が2012年、世界マネー覇権を共有する』(成甲書房)のほうが圧倒的に信用できる。
 鬼塚氏は「この世の中で起きることに偶然はあり得ない。そこには必ず、何かの必然なるものが存在する」としたためている。その通りである。

 今世界を覆っている恐慌は、「国際金融寡頭勢力(金融マフィア)が新しい世界秩序を創造するために、金融崩壊を演出したのである」
 昨日今日の世界同時株安も演出されているに違いないのだ。

     *       *       *
 アメリカは、私たちが今まで教えられていたアメリカとは全く違う国家なのではないのか、ということである。否、これは推測ではないのである。建国以来、間違いなくアメリカを支配し続けたのは、イギリスのロンドン・シティに住みついたロイスチャイルドを中心とする国際金融寡頭勢力である。

 2008年にその姿を見せた「八百長恐慌」により、アメリカのかなりの多数の人々が、自分たちが敗北させられたと考え始めている。誰によってか? アメリカ人にはその姿を鮮明には知ることができていない。内部にいる敵を知るのは難しいからである。

 内部にいる敵は巧妙に姿を隠し続けている。その内部の敵はメディアを支配し、真実を隠し続けている。
     *       *       *


 伊藤貫氏がいくらアメリカ政府の内情、本音に詳しかろうとも、アメリカの真の支配者が誰なのかを解明しないでは、説得力に欠ける。







posted by 心に青雲 at 07:00| Comment(0) | 評論 | 更新情報をチェックする