2017年02月24日

島原の子守歌の魂(3/4)


《3》
 初めに紹介したHP「からゆきさんの小部屋」に“からゆきさんとは”として解説がある。「なぜそんな仕事を?」についての説明が以下である。

 「まず第一に貧困です。当時の日本は貧しい人が多く、カネをかせぐために娘たちが当てにされました。また、日本には室町時代から続く公娼制(女性を廓に閉じ込める管理売春)があり、親が娘を売って、受け取ったカネで生計を立てていく風景は珍しくなかったのです。国が、そういう権限を親に認めていました。家や親兄弟のために苦界に身を沈める娘は親孝行、と世間はみるのが普通でした。からゆきさんの場合は、かせぐ場所がたまたま国の外であったということです。」

 これは端的に解説されていて、付け加えることはないが、あえて蛇足を書いてみたい。まず、「家や親兄弟のために苦界に身を沈める娘は親孝行、と世間はみるのが普通でした」とあるが、このサイトの管理者は、心優しい人柄ゆえに、ここまでしか書かなかったものと思われる。『島原の子守歌』の4番は、

あすこん人(し)は二個(ふたち)も
あすこん人(し)は二個(ふたち)も
純金(きん)の指輪(ゆびかね)はめちょらす
金な どこん金 金な どこん金
唐(から)金げなばよ ショウカイナ

 とある。「あすこん人」とは、からゆきから帰国した女性のことで、成金となって「金の指輪」を2つもはめている、と歌っているのだ。金の指輪はどこの金なのか、といえば、唐、つまり外国で稼いだ…と続けている。なにしろ、あばら家で粟飯しか食えない郷土で、金の指輪をはめているのだから、目立っただろう。それを見る郷土の人たちの眼差しの複雑さと、それに耐えて突っ張って指輪を見せびらかす女の心が実によく表現されている。見事な詩である。

 この詩からわかるように、苦海に身を沈めた娘が親孝行とは、必ずしも思われていなかったと思う。嫉妬、軽蔑、賎業で稼いだくせにという蔑視、そんな感情がどろどろと渦巻くのが人間社会である。からゆきに行った女性も、貧困のなかで郷土に残った女性も、互いに憎しみや蔑みの思いを抱いて反目しあったとは、あまりに悲しい。だから「からゆきさんの小部屋」の管理者は書けなかったのだろう。

 ただ、からゆきを親孝行と見るか、だまされて行ったと見るか、誘拐されて連れて行かれたと見るか、それは個々のケースでもちがう。また、郷里で貧困にあえいでいるよりは、からゆきになって稼いだおかげで裕福な暮らしができたケース、あるいは身請けされて外国人と結婚したケース、性病をうつされて悲惨な生活を送ったケースなど、個々に見るとさまざまである。

 とくに世間で誤解している点は、売春とレイプは違うということだ。レイプはれっきとした犯罪だが、売春はしょせん商売だという見方は成り立つ。からゆきは悲惨だと、全般的には言えるだろうが、女は強いものでいったん覚悟ができてしまうと、「儲けたれ!」という心境になって、積極的に客引きをやるようになる場合もあったのだ。(体を)売ればカネになる女がいて、欲望を抱いた男がいて、つまりは需要と供給が合致すると見ることもできないわけではない。

 それに男のほうも、異国の地で売春婦とはいえ、心癒されることもあったのである。ドストエフスキーの『罪と罰』に登場するソーニャは娼婦だが、その心のありように誰でも感動するはずだ。感謝すべきケースもある。
 だからこうした場合には、弁証法性で見る、つまりもっと大きな歴史的視点、ないし過程性を踏まえて理解することが必要だと思う。
 そこで簡単に、からゆきの誕生から生成発展を辿ってみたい。

 島原の歴史はあまりにも悲しい。
 発端は、キリスト教宣教師どもが渡来したところから始まる。ザビエルが、すべての厄を運んできたのだ。当時は戦国の世で、国内は統一されておらず、国と国が互いに食うか食われるかの熾烈な戦いのまっただ中にあった。鉄砲が伝来して…というより、日本の内戦を煽ろうと、ポルトガルやスペイン、支那が鉄砲を売りにきたのだ。それにまんまと乗せられて、戦国大名、小名たちは競って鉄砲を輸入し、あるいは自作した。おかげで民百姓は重い税や賦役を押しつけられて、貧困にさせられたたのだ。

 ところが鉄砲は火薬がなければ役に立たないのであって、これを日本の領主たちが欲しがることを見越して、キリスト教宣教師どもは、耶蘇教の布教とセットにして火薬の取引を始める。九州の大友や有馬らは自らキリシタンになって、宣教師と友誼を結び、輸出するものがないから、領内の女たちをひっ捕らえて奴隷として売った。実に当時ヨーロッパには50万人もの日本人女性が性奴隷として運ばれた。

 白人=キリスト教徒どもは、世界に商売と植民地支配を拡大しつつあったので、兵隊や労役夫を、例えば鉱山とか大農場の百姓とかに必要とした。男を鉱山や農場で働かせれば、それを監督・監視するためにヨーロッパの男どもは現地にとどまる。そこで必要になるのが、女だった。男の労働者たちにも、性処理をさせなければならない、というより、一度与えた賃金をまた巻き上げる装置として娼館が作られたのである。

 アヘンやタバコの吸引をさせたのも、労働者を服従させるためと、アヘンやタバコの売り上げで、再度儲けようという白人どもの悪辣さなのである。そうした売春や麻薬を扱う仕事をさせるために、白人=ユダヤどもは、世界中でマフィア、ギャング、ヤクザといった裏社会を利用、ないし意図的に育てた。世界的な資本主義経済体制の伸張と、戦争ないしヤクザによる売春、麻薬は「直接」の関係にある。

 これをキリスト教徒と称する連中は堂々やったのだから、後に少々廃娼運動をやったからとて、歴史の汚点は消せるものではない。



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2017年02月23日

島原の子守歌の魂(2/4)


《2》
 『島原の子守り歌』を作詞した宮崎康平は、島原鉄道の重役だったが、なにより邪馬台国の研究家として有名である。「からゆきさんの小部屋」の主宰者の方から教えていただいたが、宮崎康平は歌手さだまさしの恩人でもあり、『関白宣言』は彼をうたったもの、だそうである。
 以下、「宮崎康平のページ」というサイトを参考に紹介する。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1430/page036.html

 1917年長崎県島原市生まれ。早稲田大学文学部時代は森繁久彌らと演劇をやり、卒業後東宝に入社したが、兄の死去により帰郷して家業の土建業を継いだ。戦後、病没の父に代わって島原鉄道に入社、過労のため失明。33歳の若さだった。と同時に妻が出奔し、乳飲み子を置き去りにされた。このときの経験を下敷きに作詞されたのが絶唱『島原の子守り歌』である。

 しかし、宮崎氏のこの逆境からの立ち直りが素晴らしい。
 「だが、この失明は、かえって彼に闘志と活力を与えた。以後、事業に、地域の開発に、そして邪馬台国の探求にと、常人以上の精力的活動がはじまる。かくて、島原鉄道には快速のディーゼルカーが走り、バス路線は伸び、島原半島には乳牛が草を食み、たわわなバナナが南国の陽に映えた。新しい妻和子さんを眼とし、杖とし、ペンとして、記紀、倭人伝を500回も精読し、日本各地の遺跡を探り、遂にこの『まぼろしの邪馬台国』がなった」(同サイトから)

 片や福沢や伊藤のようなクソ野郎もいるが、宮崎康平氏のような日本の誇りもおられるのである。江戸中期の盲目の国学者・塙保己一のような人である。塙保己一も人に書物を音読してもらって暗記し、『群書類従』を著した。
 『まぼろしの邪馬台国』は昭和42年、大ベストセラーになった。無名の学究が彗星のごとく登場したことに、歴史学会は衝撃を受けたものだった。彼の投じた一石で「邪馬台国論争」が起きたのであった。第一回吉川英治文化賞を授賞している。作家・城山三郎の『盲人重役』は宮崎康平をモデルにした作品である。1980年没。「宮崎康平記念館」まである。

 宮崎氏の生きざまこそ見事である。われわれは自身の怠惰を本当に恥じなければならない。だから私は、歩けなくなったとか目が見えないとかですぐ車椅子に乗って人様に押してもらう人間とか、辛いことがあったから悩んで心の病になりましたとか言う人を批判するのである。ブログでもこのことを再三言ってきたが、そうすると必ず、障害者への苛めだ、差別だとコメントが来る。何が差別だ、宮崎康平さんを見習え。

 また、彼は昭和15年、大東亜戦争の前年に早大を卒業しているから、いわゆる旧制高校の魂を学んだ世代である。宮崎康平は旧制高校の魂を把持した。これこそが「心に青雲」を抱いて苦難を乗り越えたということなのだ。
 彼は、絶唱『島原の子守り歌』をつくって、昔のからゆきの境涯に同情し悼んだだけではないのだ。からゆきの出ていかざるを得なかった極貧の社会を変えたのである。だから「かくて、島原鉄道には快速のディーゼルカーが走り、バス路線は伸び、島原半島には乳牛が草を食み、たわわなバナナが南国の陽に映えた」というサイトの文言になるのである。それを妻に捨てられ、乳飲み子を抱いて呆然と…はしなかった彼・宮崎康平が成し遂げたのである。

 ついでに仏教批判をしておくと、からゆきたちに手を差し伸べた坊主は誰もいなかった、たった一人裸足の僧・広田言証を除けば…。広田言証は裸足で托鉢しながら北はシベリア・満州から南は東南アジアやインドのジャングルまで歩いて、からゆきさんを訪ね、施餓鬼供養をした人物である。言証については後述するとして、まずは仏教僧の人でなしどもである。

 からゆきたちは、貧しい実家の家計を少しでも助けようと、必死になって故国に送金した。そして自分の死後の墓や死んだ仲間の供養のために、寺院に多額の寄進をした。文字通り身を削ったカネである。寄進された寺では、そのカネを受け取って、なにがし読経しただけであっただろう。仏の道を説くなら、どうして女たちを救おうとしないのだ?

 昔はどこの田舎に行っても、農家はまずしく、男も女も幼児のときから奉公に出され「粟ん飯」を食い、「あばら屋じゃけんど」だったのに、寺だけは武家屋敷並の威風堂々立派な造りであったが、あれこそ、貧しい百姓を地獄に落ちるぞとか、仏を拝まないと先祖が苦しんでいるぞなどと脅して、カネを(布施として)巻き上げた名残=証拠である。死ねば死んだで葬式代や戒名代をふんだくった。巻き上げたカネ(銭)は、本山にも納められた。本山は一大フィナンシャルグループとなり、貴族や武士らにカネを貸しなどして大勢力となった。

 そのわれわれ庶民を虐げ、収奪してきた天皇家や僧侶に向かって、ありがたい、もったいないと掌をあわせるのだから、いったいこれは何だろうか? 何千年、こんな愚行をやったら人は目覚めるのだろう。
 世間ではともすれば、オウム真理教や創価学会など新興宗教だけを「カルト」と言って蔑むけれど、在来仏教だって耶蘇教だって、宗教の基本は同じであって、蔑むべき対象である。さんざん殺戮をやり、貧民をだまして富を巻き上げてきたのだ。なんでそんなものを信仰するんです、みなさん?

 現世が不安だからですか? でも宮崎康平さんを見なさいよ。盲目になっても信仰なんかにすがらずに、世のため人のため、いばらの道を切り拓いたではないですか。
 さて、先ほど述べた広田言証であるが、彼は明治年間に海外のからゆきを訪ねて巡礼の旅をした人物である。酷寒のシベリアから南方のジャングルまで、娼館のからゆきを集めては施餓鬼供養を行った。そのとき、彼女らは一心に掌をあわせて拝み、布施を包んだのである。

 何を彼女らは祈ったのだろうか。故郷の親族の無事を、だろうか。それとも自分が故国に帰還する日の早からんことを、か? 身を削って得た貴重なカネ…ゴロツキ女衒に言われなき借金苦を背負わされて返済に追われていながら…、貯めたカネを布施にして故国の寺院に寄付してしまう…。そのカネは「浄財」などと体裁のいい言葉に換えられ、言証によって持ち帰られ、島原市の大師通りにある理性院大師堂の「玉垣と天如塔(からゆきの尖塔)」に化けた。

 言証としては善意であり、そうする他なかったのかとも思うが、からゆきさんの貴重なカネを、坊主と石屋が儲けて、こんな玉垣に換わっただけというのは、あまりに悲しい。せめて彼女らにおいしいものでも食べさせ、きれいな着物でも好きに買わせてやりたいではないか。あるいは故国に帰して、ゆっくり温泉にでもつかってもらいたいではないか。

 玉垣には紅の文字で「阿南トンキン 高谷マサ 六十円」とか「マンデレイ 前田フユ 七円」などとある。明治、大正期のカネにして60円とか7円とかいうのだ。なかなかの大金だったかと思うべきである。この玉垣だけが彼女たちの生きた証しである。これも先の「からゆきさんの小部屋」のサイトで写真が見られる。私たちは、今となっては、彼女ら同胞の在りし日を想ってあげる以外に、いわゆる供養の手段はないのであるが…。まずは彼女らの在りし日々の姿を知らねば始まらない。



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2017年02月22日

島原の子守歌の魂(1/4)


《1》
 道場で講義をした際に、道場生に『島原の子守歌』を知っているか? と聞くと、誰も知らないという。そこで歌を聞けば思い出すかと、私が歌ってみせたが、一度も聞いたことがないと首をふる。『五木の子守唄』は? と聞くと、これはさすがに知っていた。
 日本人なら『五木の子守唄』と同様に、『島原の子守歌』くらいは知っていなければならない歌なのではないか?

 なぜならば、そこに官許歴史が隠す“本当の日本人の歴史”が隠されているからである。いずれも“子守唄”といいながら、子守りのときに歌ったというより、あまりに悲惨な自身の境涯を嘆くつぶやきに近い。
 『五木の子守唄』は、さまざまな歌詞があって、作詞者は不明である。無名の貧民によって歌い継がれるうちに、改変が進んだものと思われる。それに対して『島原の子守歌』は、作詞・作曲者ははっきりしていて、宮崎康平氏である(1959年作)。宮崎氏については後述する。

 島原の子守り歌は、「おどみゃ島原の おどみゃ島原の なしの木育ちよ…」という歌詞。
 これ以下の歌詞は、「からゆきさんの小部屋」というサイトかをご覧ください。
http://www.karayukisan.jp/no7/index.html
 ここで芹洋子さんの歌声で聴くことができる。悲しい歌を心のこもった優しさで歌い、心にしみる。歌詞は方言なので、意味がとりにくいが、同サイトや、「島原の子守り歌」のサイト
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/8142/lullaby.htmで解説されている。

「からゆきさんの小部屋」からの引用と書いたとおり、『島原の子守り歌』は、からゆきさんを歌ったものである。この「からゆき」についても、私の弟子に尋ねたが、誰も知らず、驚いた。
 からゆきとは、江戸時代末期から昭和20年までのあいだに外国に娼婦として売られていった女性たちである。端的に言えば国に捨てられたのだ。 からゆきは天草や島原が最も多かったそうだ。

 アフリカ西岸に「黄金海岸」という奴隷を運び出した土地に付けられた名前があるが、島原から口ノ津あたりの海岸を「白銀海岸(シルバーサイド)」と呼んだのは、こうした誘拐されたりだまされたりした女たちが密航していった場所だからである。
 歌詞のなかの文言に「鬼(おん)の池の久助どんの連れんこらるばい」とは、鬼池の久助という女衒が人さらいにきて、連れていくぞ、という意味である。

 また3番の歌詞にある「青煙突のバッタンフール」とは、英国貨物船のことで、青煙突がトレードマークだった。この船は北九州で産出する石炭を東南アジアに輸出するために往来していたが、からゆきの密航を乗せた。乗せられた女たちは、真っ暗な船底に押し込められ、飯もろくに与えられず、石炭の中に糞尿垂れながしにさせられ、道中屈強な船員たちに強姦され続けて行ったのだった。

 からゆきが、教科書には載っていなくても、われら同胞がかくも悲惨な目にあっていたことは、常識になっていなければなるまい。

 例えば、からゆきさんについては、森崎和江、山崎朋子、山田盟子、工藤美代子、谷川健一といった人たちの研究書があるし、文学作品としては、円地文子『南の肌』、秋元松代『村岡伊平治伝』、宮本研『からゆきさん』など多数ある。これらの一つ二つくらいは読んでいなければ、われわれが生きているこの日本社会というものがわかるわけがなかろう。

 言っておくけれど、からゆきは決して昔の話ではない。今は逆にフィリピン、韓国、ロシア、支那などなど世界中から「ジャパゆきさん」として身を売る女性が日本へやってきている。チリから来たアニータなる悪辣なジャパゆきさんに、青森住宅供給公社のバカ男が14億も貢いでしまった事件があったが…。

 それに、現代日本の女性にしても、OLだとか派遣社員とかも、基本構造は同じであって、昔のからゆきよりも相対的にカネは入るようになっただけのことである。劇作家・秋元松代氏が書いた『村岡伊平治伝』の村岡伊平治は、からゆき女性の生き血を吸って巨利を得た女衒の親玉である。

 われわれの先祖は天皇族とその配下の権力者によって、部落民とされて、千数百年に渡って虐げられてきたのだ。男は戦争に狩り出されて殺された。女は十代半ばから娼婦とされて世界中にバラまかれ、国にも家族にも捨てられて死んでいった。民衆は税金でしぼりとられるだけ収奪されてきた。だから「産めよ増やせよ」だったのだ。それが日本の本当の歴史である。

 慶応義塾をつくった福沢諭吉が、女性を海外に売り飛ばすことを推奨した。同じく明治の元勲・伊藤博文も女衒・村岡伊平治がゴロツキを集めて女性を誘拐したりだましたりして、海外に連れていき売春させる仕掛け(犯罪)を賞賛し、女郎屋をもっと増やせと言っているのである。こういう福沢や伊藤をわれわれは紙幣(1万円札)の顔にしていた(いる)のだから、日本の恥である。




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