2017年05月26日

ロシアゲート事件はネオコンの策謀


 アメリカでは“ロシアゲート”をめぐり、「トランプ政権VS司法省+連邦議会+メディア」の死闘が本格化しようとしている。
 日本のメディアは、アメリカ主要メディアの後追いしかできないから、トランプが悪いことをやって、「正義の司法」から追い詰められ、やがてニクソンの“ウォーターゲート事件”のように、弾劾されていくのではないかという論調である。

 トランプ政権側は、国家機密をロシアのラズロフ外相に漏らしてはいないというのだから、その主張を検証すべきなのがメディアの責任であろうに、反トランプ勢力のメディアの言うままに「初めにトランプの不正ありき」で報道する。

 馬渕睦夫氏がDHCテレビの「和の国の明日を造る(第49回)」でこれを解説していた(5月24日)。
 馬渕氏は大使を務めた人だから、首脳同士の会議の裏側を知っている。で、言うには、首脳会談というのは、あらかじめ議題も結論も国同士ですりあわせてあって、今回のように大統領が相手国の首脳やその代理に勝手に機密情報どころか、予定外のことはしゃべらないものなのだそうだ。

 それぞれ大統領なり首相なりは、もうできあがったシナリオにしたがって「会談」することになる。いわばセレモニーなのである。
 会談の前に中身は決まっている。共同宣言も決まっている。首脳同士が膝つきあわせて密談し、合意に達することではない、というのである。
 だからいかにトランプ個人が軽佻浮薄だとしても、事務方の意向に反してうかつにロシア側に言ってはいけないことをしゃべれないのである。

 だから、プーチンがすかさずトランプ・ラズロフ会談の記録を提出してやってもいいぞと発言したのだ。証拠はあるのだ。
 しかし、アメリカとロシアが接近することを望まないのがネオコンであるから、それは無視する。

 評論家の佐藤優が、したり顔で「トランプは一線を超えた」などと新聞に書いていたが、こんなのは冷笑していると馬渕氏は言っていた。現在の外交のシステムのなかでは「一線」など超えようがない。
 トランプ側としては、首脳会談はこういうセレモニーだと反論はしにくいだろう。国民はみんな首脳会談ではいわば本音で首脳が話し合うのだと信じ込んでいるからだ。

 だから、トランプは「機密は漏らしてない」としか言いようがない。そこを狙って、「司法省+議会+メディア」は、漏らしたにちがいないと言い募るわけだ。で、特別検察官を任命して徹底的に調べるぞと嫌がらせをする。
 トランプ側のイメージが悪くなることは避けられない。

 だからニクソン大統領が無実にも関わらず辞任に追い込まれた先例と同じになることを、「司法省+議会+メディア」すなわち、民主党、グローバリスト(国際金融資本)、ネオコンは一体となって狙う。トランプを引きずりおろしたい連中は、ニクソンに“ウォーターゲート事件”を仕掛けた連中と同じネオコンだからである。
 トランプを「保護主義」とか「ポピュリズム」と非難する勢力はみな、これである。

 日本のマスゴミは、米国メディアと連動して、アンチ保護主義、アンチポピュリズム、アンチナショナリズムの大合唱である。
 実にわかりやすい構図になっている。
 馬淵氏は、ネオコンの策謀は“ウォーターゲート事件”では成功したが、今度は成功しないだろうと期待を込めて言っておくと述べる。なぜならニクソンのころは情報はマスゴミが独占していたが、今ではネットが発達して、マスゴミは大衆を洗脳しきれず、反撃を喰らうようになったからだ、と。

 まことにその通りだ。なんでもマスゴミが良いように報道して世論を誘導する時代は終わりつつある。すばらしい。



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2017年05月23日

誰も言わないタバコの害


 私はタバコは一度も吸ったことがない。
 高校では多くの級友が隠れて吸っていただろうし、大学ではほとんどが吸っていたが、私はまったく興味が湧かなかったし、嫌悪を抱いていた。

 タバコがカラダに悪いからでもあるし、ただ大人のマネをしたいだけで背伸びしてタバコを吸うような愚かなことはしたくなかった。
 大人になるということは決してタバコを吸うことではないという信念があった。煙を吸わされると、ひどい悪臭でしかない。喫煙者がトイレに入ってウンコをしたあとは、鼻がひんまがるような強烈な悪臭充満であるのに、喫煙者はよく平気でいられるものだ。自分じゃ気が付かないんだろうねえ。

 自分は快適だからといって、他人の不快、迷惑を一切無視するその態度にはいつも怒りを覚える。
 最近、厚労省が飲食店を全面禁煙化しようと企てていて、それに自民党議員が抵抗しているやに聞く。
 私は小さな酒場まで法律でしばって禁煙にしようというのは、やりすぎではないかと思わないでもない。

 しかし、これまで喫煙者はさんざんタバコを吸っては非喫煙者を苦しめて平然としてやってきたのだから、これは報いである。本当にいい世の中になったものだ。

 タバコが嫌なら小さな居酒屋やバーに行かなければいいだけの話で、酒を飲みながらどうしても紫煙を楽しみたい向きには、勝手にしろというところだが、さりとてこれまでの人生で、喫煙者にさんざん嫌な目にあわされてきた私の感情からは、いい気味だとも思うのである。

 酒場を禁煙にするのに反対しているのは、国会議員ではあるが、表に出て来ないが本当に反対なのは財務省である。タバコを吸う奴が減って税収が減るのが財務省は嫌なのである。
 厚労省がタバコはカラダに悪いですよ、とキャンペーンをやりパンフレットを配ろうとすると、激しく妨害に出るのが財務省であった。厚労省への予算を減らすぞと脅すのである。

 タバコの箱に、アメリカ辺りでは毒です、健康が損なわれますとはっきり書かれているようだが、日本ではあいまいな表現にさせられているのは、財務省の横やりのせいである。
 財務省のクズどもは、日本人同胞の健康より、税収の減るのが許せないのだ。だから、今度の小さな酒場まで禁煙にしようという厚労省のチャレンジは、裏で自民党議員をつかって抵抗しているはずである。

 日本にどうしてもカジノを解禁させたいのも、財務省だろうと私は睨んでいる。タバコの税収が落ちて来たから、代わりに博打で税金を巻き上げようとする魂胆だろう。
 財務省に巣食う東大出の秀才は、かくのごとく薄情になれる。

 タバコには微量の阿片が含まれている。政府は、国民に覚醒剤はダメ、大麻はダメ、ヘロインはダメと言いながら、害にしかならないタバコにはこっそり阿片を仕込んで、習慣化させる狙いなのだ。

 以下は、2006年にブログに書いた「タバコの害について」である。
■ ■

 「たばこの害について」というチェーホフの短編小説があって、ある著名人がたばこの害についての講演をしようと壇上に立ったが、話し始めたら女房のグチばかり言って終わりになった、という愉快な話であった。
 しかし、今回は正真正銘「たばこの害」について把羅剔抉(はらてっけつ)を試みる。
 たばこが循環器などに害があるのは周知のことなので、それについてはことさら述べない。巷間、あまり言われていないことについて述べてみたい。

 それは喫煙者の認識に関わることである。
 昔とちがって、今は飛行機や新幹線でも禁煙スペースが広がり、喫煙者にはたぶん苦しい環境になっているかと思う。この「昔とちがって」がキーワードになる。
 昔は、喫煙者はところ構わずたばこを吸って、害煙をまき散らしていた。その環境下では、体の害は問題にはなっても、とくに認識の問題は生じなかったといってよい。ところが、今は公共の場でたばこを吸うと(自宅でもだろうが)、周囲の冷たい視線を浴びることになる。ここが大きな問題として出来したのだ。

 自分ではおいしく気分よくタバコを吸いたいのだろう。だが、周囲の冷たい目はある。それを気分よくたばこを嗜むためには、周囲の視線を気にしない必要がある。たばこに火をつける→周囲の冷たい視線が突きささる→周囲の目をシャッターを降ろすように見ないことにする→それで落ち着いておいしくタバコがのめる、と、こうなるのである。

 周囲の視線を気にしていたら、たばこがまずくなるものねえ。
 つまり昔はなかった、「周囲のきつい視線」と「シャッターを降ろす」という段階が生じた。これが認識にいかなる変化をもたらしたか、だ。周囲の非難の視線がきつくなればなるほど、必然、自分の心のなかでのシャッターは厚くしていかなければならない。
 もっと見ないふり、さらに聞こえないふりをしなければならない。

 この認識の動きが、ことタバコに関してだけに留まるなら障害は軽微であろうが、そうは問屋が卸さない。たばこを吸うたび、そのつど、周囲の視線を無視することが毎日、数十回も繰り返しのうえに繰り返されるのである。当然これは量質転化化を引き起こす。

 つまりたばこを嫌う人の視線を感じるか、それを一瞬心のなかで気にしたとたんに、ただちにその反映を打ち消そうとすることになる。これが技化するのだ。嫌なことだけ見たくない(反映したくない)というぜいたくは許されない。端的には反映はすべて打ち消そうとする傾向が強くなってしまう。
 当然ながら、たばこは体に悪い、という事実や医者の忠告にも目をつぶろう、気にしないようにしよう、という認識を形成していく。この面でも、事態は悪化する。

 まさに、衆口(しゅうこう)金を鑠(と)かし、積毀(せっき)骨を銷(け)す、である。
 山寺にこもって修行する坊主のような、反映の拒否、像形成の鈍さを招く。坊主の悟りとは、反映の鈍化であり、感性の摩滅=ボケだという論理展開をされているのは、南ク継正師範である。平たく言えば、坊主も、喫煙者も「対象を感じなくする」という技化をせっせとやっていることになる。げに恐ろしき技化をなさむにや。

 あるいは、気に食わない教師の授業は耳に入ってこないよう技化した落ちこぼれ生徒が、ますます成績が落ちるのと同じ構造である(若ボケ)。
 さらには、長年女房のグチを聞かされてうんざりした亭主が(女房の話をすべて聞こえないよう処理したあげく)定年以降、ボケていくのと同じ構造である。
 もっといえば、カルト宗教にはまった人間が、他人の忠告をいっさい聞かなくなり、教祖さまのいうことだけ信じるという反映の仕方を技化すれば、それもまたボケの形態なのだ、ということである。

 タバコを吸いながら、ボケない手段はない。あらゆるところでたばこを非難する人の視線が集まるからだ。どうしてもたばこを吸いたければ、たばこを大歓迎という人と結婚するとか、勤務中にたばこを全員が吸っている会社にでも勤めるしかない。
 事態はこれだけでは終わらない。「俺は吸いたいのに、規制があって吸えないし、みんなが禁煙禁煙を騒ぐから吸いにくい」という思いは、自分だけボケていくなら、周囲への被害は少ない。しかし往々にして、こういう仕打ちをされた喫煙者は、人を恨むようになる。で、「畜生、吸ってやる。公道で吸って、煙をまき散らして、たばこを吸わないと言っている嫌煙主義者を困らせてやる」という報復の感情すら芽生えかねない。心が荒む。

 まだある。
 こうしてたばこを頑張って吸うとボケると説いたが、そのボケた認識は、機能が歪むうちはまだよい。「ひねくれ」などは機能の歪みレベルだ。だが量質転化して脳細胞という認識を統括している実体までもが本格的にボケてしまう。そうなると、脳細胞は認識を司ると直接に、生理機能をも統括しているので、紫煙に含まれるニコチンやアヘンが体に悪影響を及ぼすのとは別の問題でもって、生理機能までもおかしくしていく。例えば「無気力」が認識だけでなく、体の統括までもが無気力になっていくのである。生理機能の瑞々しさや躍動感はこうして失われる。まさに「病は気から」は、ここでも真実である。

 こうしてたばこは、二重三重の構造で肉体とともに心をも蝕むのである。




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2017年05月22日

ロウハウニはなぜ“師”なのか


 20日、イランで大統領選挙が行なわれ、ロウハニがライシを破って再選された。
 そのこと自体には関心がないけれど、日本のマスゴミがイランの指導者を「ロウハニ師」とか「ホメイニ師」などと名前に“師”を付けるのが、どうにも違和感がある。

 今度も「ロウハニ師」と「ライシ前検事総長」の一騎打ちなどと記事に書いていた。ライシを前役職で表記するなら、「ロウハニ」は現大統領、とすべきである。なぜ、われわれ日本人にとっては宗教上の聖職者でもないのに“師”と崇め奉らねばならないのか。
 イスラム信者がほとんどいない日本で、わざわざイランの宗教指導者を“師”と尊称をつければ、事情を知らない外国人は「日本はイスラム信仰の国か」と誤解するだろう。あほくさ。

 イラン人は“師”と呼ぶのだろうが、日本人にとってはそんなことはどうでもいいから「氏」というべきである。先のフランス大統領選挙だって、「マカロン氏」「ルペン氏」と表記していたではないか。なんでイスラムの指導者には“師”となるのかが不明である。
 そんなに卑屈になる必要がどこにある?

 日本のマスゴミ記者はアタマがおかしい。害務省も、“師”で統一して呼称としている。奴らは宗教指導者を特別な、尊敬すべき存在と思いこんでいる。
 もしそういう表記が妥当だというのなら、オウム真理教の麻原は、何をやろうとも「麻原尊師」と表記しなければならないではないか。

 信仰の自由は保障されねばなるまいが、関係ない、信者でもない人間が、奉るべきを強制される謂れはない。
 新聞・テレビは、惰性でこういう表記をしているのだろうが、ホメイニやロウハウニがどれほど非道な政治をやらかそうが、変わらず“師”と、最上級の尊称をあてる。
 これでは「大統領」や「首相」より上だということになりかねない。

 むろん、ローマ法王とか、なんとか大僧正と役職名で呼ぶには構わないが、イランの指導者だけ一般名称として“師”と呼ぶのは間違っている。
 イランの場合は独特の風習があって、イスラム指導者を役職名で呼びにくいのは分かるが、だった「氏」で十分である。

 日本人からみれば、イランはいまだに政教分離ができず、女性の人権も配慮されているとは言えまいが、それはその人たちの問題であって、外野が口をだすべきではない。どうぞご勝手に、である。
 だが、その奇習をわれわれに強いられるのはゴメンこうむりたい。

 創価の池田大作を、マスゴミが「池田師」と表記したら(呼称を強制されたら)、おかしいだろ。それと同じだ。




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2017年05月08日

ユネスコ世界文化遺産の愚劣


 5月6日、福岡県の古代遺跡「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録するようユネスコの諮問機関、イコモスが勧告したと報じられた。
 日本政府がこの勧告にしたがって登録申請すれば7月開催のユネスコ世界遺産委員会で正式決定される見通しだという。

 産経新聞5月6日付によると、「登録されると、日本国内の世界遺産は文化遺産17件、自然遺産4件の計21件となる。
 宗像・沖ノ島と関連遺産群は4〜9世紀の大陸との交流にまつわる古代遺跡。九州と朝鮮半島の間の玄界灘にあり航海安全と交流成就を祈る国家的祭祀が行われた沖ノ島(宗像大社沖津宮(おきつみや)と本土の宗像大社、祭祀を担う豪族が築いた新原・奴山古墳群など8件の国指定史跡で構成する。)」

 国連(正しくは連合国)にしろユネスコにしろ、実態は国際機関に名を借りた白人支配の貫徹、あるいは有色人種国家への介入が目的である。そして、きれいごとを言って、カネを集めては白人とその子分に成り下がった一部の有色人種の人間を事務員にしてタダ飯を食うためである。
 その真実を、国会も害務省もメディアも隠蔽する。

 国連(連合国)では、ドイツと日本は依然として「敵国条項」の対象になったままだから、さまざまな嫌がらせをされる。ユネスコが先般、「南京大虐殺」なるインチキを世界文化遺産に認めたのもその一環であったろう。
 だから。
 日本の移籍や自然風物を、ユネスコに世界遺産として認めていただこうという働きかけ自体が間違いで、それは奴隷根性そのものである。

 媚中・副島隆彦は、「世界基準に逆らうな」が口癖のようだが、要はグローバリズムに従え、という奴隷根性を推奨しているに過ぎない。だからありもしなかった「南京大虐殺」を肯定して支那に媚びる。主体性ゼロのアホである。
 
 背景には根深い白人崇拝があるようだ。白人こそ、白人文化こそ人類のトップなんだという馬鹿げ切った思い込みがあって、だから国連信仰、ユネスコ崇拝につながる。
 私たちはおガキ様のころから学校教育で、国連は人類の理想だの、ユネスコは世界中の人を幸せにしようと努力している機関だから寄付をしましょうなどと強制されてきた、いささかも疑わないアタマにさせられている。

 その流れで、多くの世界中の人たちはグローバリズムは正しいと思わされている。それに疑問を呈すると、「極右」とレッテルを貼られ、あるいは「保守主義」「ポピュリズム」と罵られる。
 白人支配層としては、大衆にグローバリズムのウソがバレないように、あの手この手で国連やユネスコに人々の「信仰」が集まりつづけるように工作してくる。

 それが今回の「宗像・沖ノ島」の世界遺産登録の勧告である。白人どもはそうやって、常に白人の価値基準に世界中を従わせようとして、餌を撒くのだ。
 奴隷化された日本人は、「白人様ありがたや」「私たちの歴史も認めてくださる」と叩頭跪拝し続ける。

 このたびの沖ノ島の件でも、日本が申請した神社全体は認められず、岩でしかないものはダメだとの見解をイコモスは示して蹴った。岩もご神体という日本人の常識は通じないし、奴らは「野蛮人が何を抜かすか」としか思っていないことの顕われである。
 どうせ、白人優位としか思っていない連中に「審査」してもらったところで、奴らにはその価値はわかりはしない。
 だから止めておけと言うのである。

 別に世界遺産なんて「称号」を白人様にいただく必要はない。土地の人がわかっていて、日本人もわかって大切にするだけで十分ではないか。国の指定史跡、それでいい。
 自然遺産にしても富士山や熊野古道が世界遺産に登録されて、いいことはなかった。支那人のクズどもが押し寄せて大迷惑に及んでいるだけだ。

 それでも日本の小役人は仕事ができ、メディアも記事が書けるから大歓迎だ。

 日本は国連からもユネスコからも脱退するべきである。それが無意味な白人崇拝思想から脱却する第一歩になるだろう。




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2017年05月05日

小説『あのころはそれがプルメリアだった』(第15回 最終回)


〈そして、それがまた……〉

 プルメリア島から、日本人捕虜を乗せた船が出港しようとしていた。
 アメリカ軍は、捕らえたか投降してきた日本人を、鉄条網を張りめぐらした空き地に、粗末なテントをはって収容した。
 その数が、50,100とまとまると、軍の輸送船に乗せてハワイへ移したのである。その輸送船が、ゆっくりとプルメリアの桟橋をはなれていく。むろん見送る人もない。ドラも鳴らない。
 船からながめると、市街地は砲弾で焼けただれて、見るかげもない。プルメリア名物だった製糖工場の四本のエントツも、かろうじて1本残るのみである。

 捕虜になった日本人たちが、戦争でこわれた建物をかたずけさせられていた。カナカ族はチャモロ族、朝鮮人たちは、ほとんどがすでにハワイに移されていた。
 アメリカ軍の飛行機が、爆弾のかわりにDDTを戦場のあとに降らせていた。

 小雨が降っていた。遠くの山々はけむっていたが、緑は濃いままであった。海鳥が何ごともなかったかのように港の中をとんでいる。波打ちぎわには、米軍の水陸両用戦車や上陸用舟艇が、破壊されたままのこされていた。赤くサビだしているものもあった。
 雨のせいもあって、疲れきった日本人たちは、ほとんどが船の中で横になっていた。

「夏草や つわものどもが 夢のあと・・・」
 デッキに立ってプルメリア島を見ていた初老の男がつぶやいた。
「先生。先生じゃありませんか」
 いつの間にか、となりに来ていた少年が、男に声をかけた。
「先生、ぼくです。」
 と少年は歯を見せて笑い、ぞうきんのようなヨレヨレの帽子をとった。
「おう、君か。生きていたのか」
 先生と呼ばれた男は、少年の肩に手をおいた。

「はい。先生もご無事で!」
 初老の男は国民学校高等科の教師であり、少年はそのかつての教え子だった。
「君は製糖工場に勤めていたんだね」
「そうです。最後は野戦病院の手伝いをしていて……。先生は?」
「私か?島の北へと逃げたんだが、最後は洞くつにいるところを米軍にみつかった」
 ふたりはしばらく、あれが映画館だ。あっちが国民学校だなど指さしあっていた。

 甲板にいたアメリカ兵が、手まねきしている。行って、兵の指す海をのぞく。
「ゼロセン」
 アメリカ兵がポツリと言った。
 白っぽいサンゴ礁の海底に、なにか黒いかたまりがあるのがわかった。零戦が撃ちおとされて、ここに沈んでいるらしかった。船がすぐそこを通過するとアメリカ兵はどこかに行ってしまった。

「先生。この戦争はまちがっていたんでしょうか」
「どうしてかね」
「だって、アメリカはものすごく物資が豊富です。捕虜のぼくらにも、たくさん食べさせてくれたし、チョコレートまでくれました。武器も弾薬の量なんかも日本軍とは比べものにならなかったじゃないですか。戦車も飛行機も、なにもかも日本軍の百倍はすぐれていて、たくさんあります。こんな相手とどうして戦争をしたんでしょう」
「……」

「ぼくらは、精神力で勝てるなんて言われてきましたけど、日本軍はぼくらに何をしたというのです。戦えとも逃げろとも、どこへ行けとも教えてくれない。ただ、食べ物をよこせ、薬はないのか。それだけでした。これで必勝の信念なんて、だれがいうことをきくんですか?」
「なぜ、アメリカと戦争をしたのか。それは国が、つまり国の支配者が必要だったから、としか今は言えない。われわれ国民に必要な戦争ではなかった。負けたから言うのではないが、私は、なぜ国にとって戦争が必要だったのか、疑問におもっていた。アメリカと戦うために必要だったのか、それとも国民を従わせるために必要だったのか、どちらに重点があったのだろうか、とも考えたりしたものだ」

「でも、先生たちは、日本のやり方がすべて正しいと言ってこられたのではないですか」
「そうだね、ちがうとは言えないね。この時代だったから、そのように君たちに教えるしかなかった。しかしね、私は自分の教えていたことが、全部正しかったとは言わないが、全部まちがっていたとも思っていない。なにごとにも絶対ということはないんだ。そこを日本人はまちがえたのではないかと思う」

「おっしゃることがわかりません」
「日本は、この戦争をすすめることや、このままの社会秩序だけが正しいと、思いこみすぎたんだよ。だから、他の国のことや、他の国の人たちのことを虫ケラのように思ってきた。それぞれの国は、正しいこともまちがったことも、あわせ持ちながら生活している。これは欠点も長所もあるということではない。あることは、正しくもまちがいにもなるということだ。どこまで行っても、正しいなんてことは絶対にただしいなんてことはない。海が平らだと主張するのは、今ここで見ている範囲なら絶対に正しいが、地球全体として見ればまちがいになる」

「では、何を正しいと信じたらいいんですか?」
「何が正しいかは条件しだいだ、と考える柔軟性が必要ではないかな」
「そんなこと言われてもこまります」
「これからの日本は、君たち若者が創りなおしていくだろう。だが、アメリカのものの豊富な暮らしを見てしまった君たちは、今度は、このものの豊かなことだけが正しいと思いこまなければいいが、と先生は思うのだ」
「だって、食べられないより、食べられるほうがいいに決まっています」

「それだ。君たちはそういう社会をつくるだろう。アメリカのやり方がすべて正しく、いままでの日本のやり方は全部だめだと、否定してしまうだろう。
 戦争には負けた。たくさんの人が死んだ。しかし、戦争は勝ち負けだけではない。また悲惨な面だけ見ても後世の日本のためにはよろしくない。人間はパンのみにて生きるにあらずと言うように、プライドや名誉を忘れてはいけない。つまり私たちは名誉と誇りのためにアメリカと戦ったのだということを」

「でも、先生。アメリカ兵に写真を見せてもらったのです。アメリカの町には自動車がたくさん走っていて、どの家にもラジオがあって、電気でうごく冷蔵庫もあって、庭には芝生があって、畑をたがやすのだって大きな自動車で……」
「そうだね。日本人は貧しすぎるからね。もうだれも、心の清らかさや、闘う魂を大切だとは言わなくなるかもしれないな。それを教えたかった私は、教師としてまちがっていたとは思わないが……、ただ、闘う魂の問題を度はずれに考えて、それが日本人だけにあって、プルメリア人やアメリカ人にはないと考えだしたのがまちがいなんだよ」

 さきほどのアメリカ兵が寄ってきて、空をあおいでから親指を立てた拳で甲板の下を指さした。雨にぬれるから船室に入れというのであった。
 船はサンゴ礁のリーフを出て、太平洋に入ろうとしていた。
 海の色が変わった。



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