2017年04月15日

コーヒーと私


 久しぶりに投稿しますが、まだ本格的な復帰とはいきません。
 たくさんの方から、コメントで激励をいただき、大変嬉しく励みになっております。
 しばらくしたら、本ブログで昔書いた拙い小説を分載しようかと思っております。

    *     *

 私は現在はコーヒー党である。毎日、必ず1杯のコーヒーを自分で淹れて飲むのが愉しみになっている。
 普通の人はまあ、コーヒーが好き、紅茶がおいしい、ということで好むのだろうが、私にとっては特別の思い入れがある飲みものなのだ。
 30歳代までは紅茶党だったが、あるときを境にコーヒー好きに変わった。

 それは私が空手を始めて4年が経って、黒帯を締めることが適い、さらに無謀にも指導局に入局することを希望して、思いがけず南ク師範から許可していただいたときからだった。
 指導局の会議や学究の方たちとの合同のゼミに参加すると、早朝の目覚めの1杯や休憩時に、コーヒーを飲むのであった。

 全員のコーヒーを淹れて配るのが下っ端の仕事だった。それまで紅茶に親しみ、コーヒーは淹れたことがなかったので、始めは戸惑った。おおぜいの分をコーヒーメーカーで創るぶんにはすぐに慣れたが、少人数や南ク師範のためにドリップ式で私が淹れるのは常に緊張した。

 わが空手組織では、南ク師範が創案した独自のコーヒーの淹れ方があるので、それに習熟しなければならない。その淹れ方も、形ばかりならすぐに真似ることはできても、肝心なのは心を込めて淹れる、これがむずかしい。
 そのため、自宅でコーヒーを淹れる練習をする羽目になった。いかにしたらおいしく淹れることができるかを毎日心を砕いて練習するうちに、自分でもコーヒーが好きになった。

 こうしてコーヒーを淹れることで、心をこめることや、人の気持ちをわかろうとすることができるようになる訓練につながるのであった。
 昔は花嫁修業として、娘たちは茶道、華道をならわされたものだった。子供のころは私もそんな習い事をしてなんで花嫁修業になるのとバカにしていたけれど、自分が人のためにコーヒーを淹れる経験をしたおかげで、なるほど茶道、華道もやりかた次第で、人の気持ちがわかるようになる大事な花嫁修業だったのかと理解できるようになった。

 他人の気持ちがわかるようになるには、自分の思いだけでは難しい。そこを、花の活け方やお茶のたて方を媒介にして実践することでいわば壁を乗り越えるのである。
 こうした実践そのものが、まさに弁証法の修得過程につながるのである。

 これらを意識して意図的にやってみなければ、ただ本を読んだだけでは弁証法はものになっていかない。
 たかがコーヒーを淹れて飲むことでも疎かにせず、目的意識的に直接には他人の心がわかるように、間接的には弁証法が身に付く修行なのであった。
 

posted by 心に青雲 at 20:09| 東京 ☀| Comment(3) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年03月03日

お知らせ

このところ体調が優れず、ブログを書く気力が衰えており、申し訳ありませんが、しばらく休養させてください。体調が良い日があれば、原稿を書いて不定期にアップできると思います。
posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☁| Comment(12) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年03月02日

弁証法的な運転の仕方(2/2)


《2》
 例えば、高速道路を走っているとして、このとき時速100キロなら100キロを、1000キロにわたって続けることである。それはコンピューターに時速をインプットさせてやらせることではむろん、ない。自分のアクセル操作、ブレーキ操作だけで神経を駆使して同じ速度を保つ。
 こんなことは脳細胞はやらない。やりたくない。だがあえてそれをやる。これが修行になる。

 ある方に聞いたが、運転の上手な人に乗せていただくと、いつ発車したのか、いつ停車したのかわからないほどだった、という。急ブレーキほどでなくとも、車を停車するときは若干前のめりになる。へたな運転だと、ブレーキ、アクセルのたびにつんのめったり、のけぞったりさせられるが、そういう動揺がいっさいないそうだ。

 天皇を乗せるお召し自動車もかくや、という運転だそうだ。こうやって車という対象と見事なる相互浸透を果たしていくことである。
 実際はよほどの足先などの神経をつかってアクセル操作しているのだ。
 あるドラマで、大企業の社長お抱えの運転手がこう言う場面があった。社長を乗せる運転手は、車のダッシュボード上に水を入れたコップを乗せ、その水が一滴もこぼれないように運転するものだ、と。これが誇りというものの、いわば初級レベルである。

 それから。
 運転中についていえば、自分の運転する車の周囲を運動しているものと見、また、いわば過程の複合体的に見ることであろうか。季節、天候、曜日、時刻(朝か深夜かのように)、道路状況を踏まえる。そして自分の前後左右の車がどんな車なのか、その運転者がどんな認識で運転しているのか(営業車なら仕事で急いでいるとか、家族で乗っていて談笑しながら運転しているから、やや注意力散漫になっているとかを瞬時に見極めるものだ)、初心者かベテランか女性かを見極め、信号や標識を判断し、この先にどんな信号や踏切があり、駐車中の車がいるか、右折車、左折車がいるか、歩行者が飛び出してこないか、警官はいないか、などなどを刻々と反映し予測しつつ運転するものである。

 これがいわば弁証法的な運転だ。
 運転する自分の車や周囲の対象(道路や信号機や前後左右の車など)との実体的関わりで相互浸透し、量質転化させることだ。すなわち、弁証法を実践によって発見し、創ることである。
 しかし以前にも書いたが女性ドライバーは得てしてこういう弁証法的運転はしない。前方は見ているが、後ろから来る車はまったく考慮のほかであるとか、自分が左斜線に入りたければ、周囲がどんな走行をしていようがお構いなくウインカーも出さずに入ってくるとか…、そういう運転をなさる。

 だから前後左右に女性ドライバーがいたら、それなりに注意しなければいけない。車間をあけるとか、先に行かせるとかを実施しなければ危ない。しかし車間を開けすぎると、今度は別の焦っている車が強引に割り込んで来かねないから、そこをどう判断して適切な車間をとるか、とか。
 
 こういう認識の流れを楽しまない人は運転がうまくならないだろうし、弁証法的運転の実践はできまい。要は自分が運転している現在の道路状況に、自分を合わせつつ、対立物の統一として自分の思ったような快適で安全な運転をやるのだ。道路状況に合わせることと、自分のやりたい運転をすることの統一、すなわちこれは矛盾であるが、それを刻々と「非敵対的矛盾」として刻々と流れるように創出していくものである。

 『自動車の選び方』で「躍動感」の話を紹介したけれど、端的に言えば弁証法は躍動感である。だから認識も実体も躍動感を帯びていなければ弁証法はわからないのである。
 弁証法とはこれまた端的には運動である。運転を見れば、まさに運動であって、刻一刻と状況が変わり、自分の認識も変化していく。その変化するなかで、誇り高く、志高く、を把持して運転していくのだ。

 と言われたところで、やったことがなければわからない。わからないからこそ工夫である。私の場合はこれという音楽を聴きながら運転をした。例えば軍歌や寮歌であり、ベートーヴェンの「運命」や「英雄」であった。それと相互浸透させながら、誇り高く運転するとはどういうことかを探った。
 これは同時に感性を磨くための運転にもなる。

 弁証法とは、対象を運動形態において把握するための一般教養なのだから、車の運転とは、自分の車との関わりもさることながら、運転中の躍動感や周囲の状況に的確にあわせた運転などを追及しつつ、その対象を変化発展として捉えていくことであろう。

 むろん自分勝手な運転をするヤカラもいるけれど、運転する人間は、これまで述べてきたごとく、社会関係に認識を置くのでなければならず、そうでない女性ドライバーは大変な迷惑なのである。そしてこうした社会関係に認識を置くからこそ発展があるのだ。
 例えば、より良い車に乗って、そのより良い車からより良い認識をもらう、というように発展させるのである。

 これまで、私の知り合いのなかには弁証法を勉強したい、認識論をわかりたい、と志望する人間はいた。その人に必ずアドバイスしてきたことは、できるだけクルマの免許をとって運転するべきだということだった。しかし、たいていの人は勉強するとは、本を読むことだと刷り込まれている、その思いが抜きがたいのだ。クルマなんか関係ないと思ってしまう。クルマなんか運転するより、ヘーゲルの本を理解しなければ…となってしまう。

 クルマに乗らなければ弁証法がわかる頭にならない、というわけではもちろんないけれど…。空手に役立つような運転を、弁証法の修得に役立つ運転を、なのであって、なにごとによらず目的意識的にやればいいのだ。
 
 例えば、われわれの空手でいえば、突きがまずければ、なぜそうなのか、そうなってきたのかを被指導者に(弁証法を踏まえて)説かねばならない。そして上達させなければならない。

 それが空手と弁証法を同じものとして教えることであり、それを世界で初めて実践されて、史上最高の頭脳を創られたのが南ク継正先生であった。つまり、やっていることを弁証法として人に教えなければ実力にはならないのである。
 自動車の選び方も、そして運転のあり方も、なぜそうなのか、なぜうまく運転できなかったのか、誇り高く運転するとはいかなることか、などを実体たる外界(対象)と関わることで学ぶこと、あるいは弁証法として学ぶことにほかならない。




posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年03月01日

弁証法的な運転の仕方(1/2)


 クルマの選び方に続いて、これは2008年6月に書いた乗り方の話。

《1》
 本ブログを読んでくださっている方から先の「自動車の選び方」の感想をメールでいただいた。この方は、車の免許は学生時代にとったが、ペーパードライバーの時期が長く続き、現在は車の運転はあまり得意ではないそうだ。そして、社会性をもった運転ができるよう訓練していきたいとおっしゃったあとで、「機会がありましたら、運転を弁証法的に行なう方法についてご教示いただけましたら幸いです」とあった。

 そこで、弁証法的に車の運転をするとはいかなることかについて今日は説いてみたい。
 
 これはまず大きくは、対象を弁証法的に捉え返すとはいかなることかを問うべきである。すなわち人間の認識は問いかけ的反映であること、この大前提から考えていかねばならない。
 問いかけるもの(そのレベルや思想性)で、対象は反映する。だから志をもって問いかければ、志をもって反映するし、誇りをもって反映すれば誇りをもって反映する。また情熱をもって問いかければ、情熱をもって反映する。

 ところで、当時よくコメントをくださっていた松島様からは以下のコメントを頂戴した。
 「自動車の選び方には、個人の価値観、考え方等が最も顕著に反映されるものであるから、車選びには、職業とかステータスの問題よりも個々の抱えるTPOや価値観、そのプライオリティが大きく関係してくるし、個々のセンスの問題もある。張りぼての評価よりも中身を正しく見極めたく、自らの考え方を一貫して主張できる人間に大きな魅力を感じます。」

 松島様は、私のお勧めの車選びは「張りぼての評価」でしかないのではないか、とおっしゃるようだが、私が言わんとしている「認識は対象の問いかけ的反映である」という原則を理解していただいていない。
 また、「自らの考え方を一貫して主張できる人間」といったって、レベルがあるのである。それでいいなら、児童相談所の不逞の輩だって、自己主張を一貫している(強情だ)。

 松島様の反論は、結局のところ私には、社会を見ないで自分を見てしまっている。社会で見れば、たしかに見ようによっては「見栄」とか「張りぼてだ」とかに見えるかもしれないが、私が勧めたのは、見るなら将来のあらまほしき自分から見て車を選ぶべきだと言ったのである。

  話を戻すが、例えばあなたが、トヨタのクラウンを買ったとして、それを誇りを持って眺めれば「まんざらでもない車だな、うん」となるのだ。しかしいくら誇りを持って対象を見ても、軽自動車の三菱EKワゴンでは、チト無理がある。車はそれなりにメーカーとその技術者が技術の粋を結集した、魂のこもったものでないと、誇りや志を持ってみることはむずかしい。軽自動車には誇りや志はこめられない。
 軽自動車はしょせん下駄代わりと割り切るしかない。

 誇りのない人間が対象を見れば、誇りないものとしてしか反映しない。先のクラウンでいえば、誇りなきものとして反映させれば「それがどうした」でおしまいである。
 私はこれまでブログで述べてきた例えば体罰の問題にしても、DVの問題にしても、かかるごとく対象を大志や誇りや情熱として捉えて、至上のテーマとして反映させてきたのだ。
 児童相談所の木っ端役人どもや多くの小学校教諭どもは誇りも大志もないから、体罰を誇りも大志もないものとしか反映できない。それを批判してきたのである。
 
 われわれがやっている空手も同じくである。通常の人は空手を空手としてだけ見て、蹴ったり突いたりして、街中でも「オス!」などと言う野蛮な連中、としか見ないであろう。しかしわれわれの流派はそうではない。拳ひとつ握ることすら、世界最高の文化の創造として、人類の文化遺産の発展的継承として見るのである。つまり空手という対象を、どう問いかけたかといえば、史上最高レベルでの大志と誇りと情熱で捉えて(問いかけて)研鑽を積んできた。だから他のいかなる学者、学派の追随を許さぬ世界に冠たる学的成果を披瀝できるまでになった。
 これは事実である。

 松島様がおっしゃるとおり、今私が身分不相応に最高グレードのベンツを買ったとすれば、いかにも「張りぼて」であろう。「似合ってないよ」と笑われるにちがいない。だが、それでもあえてベンツを志や誇りをもって捉え返し、自分がベンツに相応しい人間になっていけば良いことである。志や誇り、あるいはステータスとして車を捉えなければ、それはむろん「張りぼて」でしかあるまい。

 私が『自動車の選び方』で述べたかったことは、優れた対象に自分を合わせること、これである。その基準で選び、かつ運転することとして車を勧めた。
 よくわが流派の最高指導者がおっしゃることであるが、三浦つとむ氏は、対象に弁証法を当てはめたのだ、と。それに対して最高指導者は対象的事実の中に弁証法を発見した、あるいは創った、のであった。

 どういうことかと言えば、対照的事実を例えば量質転化させることこそが、対象に弁証法を発見することだ。
 三浦さんは、それは自己の二重化だとか、そこに矛盾がある、というレベルであった。しかしだから、弁証法とは何かの教科書として良いのだ。最初から対象に弁証法を発見しろと言ったって、できるはずがないからである。

 したがって、車を弁証法的に運転するとは、車と言う対象の中に弁証法を発見すべく、あるいは創るべく運転することにほかならない。
 では具体的にはどういうことか。それは明日に。




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2017年02月28日

クルマの選び方(2/2)


《2》一流の自分を創るために乗る車
 昨日、躍動感と言う言葉を使いましたが、人間に躍動感を付けるためにクルマを活用した話を紹介します。
 昔、まだ庶民にはクルマが高峰の花だった時代のこと。ある男性が大学を卒業して小学校の教師に赴任しました。小学校の先生ではとても自家用車など持てない時代です。しかし、彼は借金してでもクルマを買うことを勧められ、素直に実践しました。そして最初はそれこそ軽自動車から始まって、勧められるまま、給料があがるごとに無理してでも上級クラスのクルマに買い替えていったそうです。

 おかげでその男性は、トントン拍子に出世して、若くして校長になり、やがてその県では最年少記録の教育委員になったそうです。
 これはどういうことかと言えば、クルマによって認識の躍動感を養成したから、なのです。脳細胞が生き生きとし、躍動するようになるために、次々に良いクルマに買い替えて乗ったわけです。

 認識に躍動感が出るとは、例えば引っ込み思案ではなくなり、どんどん積極的に仕事をこなし、意見を堂々と言い、人を率いて行くことが好きになり、怠け癖が消え、背筋がシャキッとするようになることです。それを周囲の人は見ていますから、トントン拍子に出世していき、人から頼られていくのは当然のことなのです。

 ですから、鬱だとか、どうも性格が暗くて消極的だという人が、自分を変えたければ、派手なスポーツカーでも乗って、高速道路をぶっ飛ばすといいのではないでしょうか。そうやって日常生活で良いものと自分の認識を相互浸透させるわけです。
 高速をぶっ飛ばしても安全なように、次にはABSだとかの安全性確保が大事になるわけです。

 わが流派では、「車は感動を買うと思えば安いものだ」と言われます。感動!ですからね。これは軽自動車ではどうにもならないのです。みんなが平伏するような車、憧れるような車でないと、感動にはなりません。これは見栄ではありません。

 最先端の技術が積まれているとか、室内インテリアは高級な革シートとか、天童の木目パネルであるとか、オーディオも最高品質だとか。それにホイールはBBSで、ステアリングも…というように、それぞれのパーツでも名の知れた一級品をそろえていけば、それはそれはモノが違いますから、感動もいや増しになるわけです。
 そういう技術者の英知の結晶が車ですから、その技術者の最高の認識=魂をもらえるわけです。

 それに車種の中のグレードも大事です。つまりスタンダード・レベルではどうしても見劣りがします。超デラックスのレベルでないといけません。例えば社長同士がゴルフ場に行くとしまして、ゴルフ場の駐車場に車を止めたときに、自分の車が、A社の社長の車やB社の社長の車と同じベンツでありながら、グレードの低いベンツであれば、当然見下げられた気分になり、ステータスを失います。だから車種の中でも一番高いグレードを選ばなければなりません。
 車はとてつもなくカネがかかるんです(笑)。

 教師にしっかりしろと書いた流れで続けると、思想性の高みがないから生徒にバカにされるのであり、これはどんな職業であろうと。生きざまであろうと共通しています。
 思想性の高みは日常生活のなかで創られます。飯の食い方、歯の磨き方。服の着方、そして会話の仕方にそれが全部現れます。だからクルマなのです。

 例えばアウディが世界一の車だとしたら、その世界一の車を創った技術者(あるいは経営者)の思想性の高みが、アウディという実体を創ったのですから、われわれがアウディに乗るとは、その世界一の車を創った技術者の魂をも受け取るように乗るべきなのです。ただ自慢たらたら乗るものではいけないわけですね。

 これは女性がグッチの鞄のような一流品を身につける場合もそうなのであって、単に欲しいから、自慢したいから、では自分が一流になる目的には関係ありません。グッチの思想性の高みを相互浸透する目的で身につけるべきなのです。

 従いまして、自分がアウディを運転するのではないのです。アウディが自分を運転させるのです。“自分がアウディに乗る”のではないと思います。これが最初に書きましたように、車を選んで乗ることは、自分が文化を背負っているという自負を持つため、育てるためのツールが車であるとともに、自分を一流の何か(医者とか、指導者とか、芸術家とか)に位置づけた車に乗ることの実践的なあらまほしき姿なのです。
 
 クルマに興味がない人は、ほかのもので替えるしかないでしょう。着る服とかに…それが何かはご自分で判断していただきたい。ただ一点豪華主義(スーツはボロでネクタイだけ最高級品など)はいけないようです。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする