2017年02月25日

島原の子守歌の魂(4/4)


《4》
 さて話を日本に戻せば、戦国の世を統一した秀吉や家康は、キリスト教が日本を侵略しようとしている事を見抜いたから、キリシタン禁制を打ち出し、やがて鎖国に至るのだが、キリシタンが広まってしまった島原や天草地方には手を焼いた。島原の乱は実際は、キリシタン一揆ではなかったそうで、徳川政権がこの地方からキリシタンを一掃しようとして、この地方全体に非常に苛烈な支配体制をとったことが原因である。

 島原の乱では原城にこもった民百姓3万7050人を全滅させている。乱のあとに幕府は、多くの寺や開拓者を各藩から集め、島原・天草地方に新しい村づくりをなさしめた。だからややオーバーに言えば、この地方は大昔からの人は絶え、新参者が居着いたことになった。この地方に立派な寺が多いのは、幕府が援助したからで、そうまでしてキリシタンを絶滅させ、二度と決起などさせないための施策だった。

 それにこの地方は火山灰地なので土地がやせていた。寛永4年には雲仙岳の噴火で1万人ほどの死者を出している。踏んだり蹴ったりだった。
 さらに明治維新となって、ついに本格的な白人どもの魔の手が伸びた。日本は彼らによって開国させられ、世界資本主義体制=ユダヤ金権力の枠にはめ込まれた。日清・日露の戦役に、あるいは世界大戦にと、ユダヤの陰謀によって狩り出され、日本の男たちは戦場で殺されていった。だから働き手の男がいなくなった農村はいっそう貧しくされた。

 もう一つ貧困化の原因は、明治以降の鉄道の普及である。おおかまに言えば、江戸時代までは、日本の経済活動は“面”であって、交通手段がろくに発達していなかったから、陸上交通は狭い道が編み目のように発達していて、そこを行商が歩いたのであった。

 だからある意味、人民の富みは均されていたのである。ところが明治になって鉄道が敷かれ、経済活動は点と線に変わった。集中させたほうが効率があがり儲かるからである。鉄道の拠点とその周辺は経済活動が活発化するが、そこから大きく外れた地域は取り残されることになった。

 地図を見ればよくわかるが、例えば島原半島や天草は、北九州から長崎への幹線から大きく外れてしまった。つまり農産物ひとつとっても、大都市へ出荷するに不利な状態にさせられた。これがまた貧困を増長させる原因、つまり出稼ぎに出たり、移民となったり、満州開拓に出るしかない状況が生じたのである。鉄道や道路の発展にはこんな負の面もあったのだ。

 明治以降、日本は商社などの海外進出で、アメリカ、満州、シベリア、支那、東南アジアなどに出ていった。例えばゴム農園で、あるいは真珠取りに、男たちが狩り出された。その男たちに提供されたのが娼婦である。資本家たちは、ヤクザをつかって娼館を経営させ、奴隷のようにこき使った男たちをさらに歓楽街へと誘導して散財させたのだ。

 だから女が必要とされた。まず最初は現地植民地で商売したり、原住民を監督(虐待)する仕事に来る男性の性処理のために女が集められたりした。日本軍が出向いた先でも女が必要だ、とされて将校、兵士らの相手として女がかき集められた。

 軍隊に娼婦はつきもので、何も日本だけの事情ではない。雑談的に言えば、源平の戦いの当時の白拍子は、兵についていった娼婦である。近くは大東亜戦争が終わった直後に東久邇宮首相は進駐軍のために、慰安婦7万人を用意させたという。戦国時代の武将は男色を好んだが、これも女の代替である。西洋でも軍隊には映画「外人部隊」に見るように、女がついて歩いたし、さらに昔はブタやヒツジなどの動物を連れて行軍したのである。

 閑話休題。
 満州や支那で、日本軍が占領した街にはまっ先に、ピー屋(売春宿)と赤提灯ができ(戦時中は朝鮮人経営者が多かった)、ついで三井や三菱の商社が進出してきたのであった。からゆきからやがて慰安婦へと変化した。三井などの大資本と天皇家や政治家はグルになって、戦争を仕掛け、麻薬や売春をセットにして発展したのだ。

 セットにしたのはそれだけではなかった。貧しい人びとをだまして信仰させたキリスト教や仏教が、それである。ユダヤ金権勢力にせよ、日本の権力者にせよ、民衆を困窮に落としこんでおいて、一方で宗教をあてがって、権力に歯向かうことなく、神仏という空想世界に安心立命を求めるよう、その心までも支配した。それゆえ私は広田言証のやった慈善行為を善とはし得ない。マルクスが言った「宗教とは麻薬である」は、正しいのだ。

 「からゆきの小部屋」サイトの解説に蛇足を加えるつもりが長くなった。見てきたように、とりわけ島原・天草はからゆきが多かったのだが、その原因たる貧困は、「創られた」ものだったのである。貧しいから人びとは海外に出稼ぎに出、移民となって出ていったのではあるが、そのからゆきも含めた出稼ぎや移民でも儲けようとした闇の勢力があったから、そうなったのである。

 日本の大衆を貧困にしておけば、彼らは自ずと食うために海外に出ていかざるを得ないし、宗教にすがらざるを得ない。そこに商売のタネを見つけ、ぼろ儲けを企んだのが大企業であり、その大株主であった天皇家であった。むろん、これはユダヤが世界に先駆けて実践し広めた、悪辣な手法であって、日本はそれをも猿マネしたのである。
 かくて、『島原の子守歌』の6番にあるように、「伴天連(バテレン)祭の 笛や太鼓も鳴りやんだ」のである。





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2017年02月24日

島原の子守歌の魂(3/4)


《3》
 初めに紹介したHP「からゆきさんの小部屋」に“からゆきさんとは”として解説がある。「なぜそんな仕事を?」についての説明が以下である。

 「まず第一に貧困です。当時の日本は貧しい人が多く、カネをかせぐために娘たちが当てにされました。また、日本には室町時代から続く公娼制(女性を廓に閉じ込める管理売春)があり、親が娘を売って、受け取ったカネで生計を立てていく風景は珍しくなかったのです。国が、そういう権限を親に認めていました。家や親兄弟のために苦界に身を沈める娘は親孝行、と世間はみるのが普通でした。からゆきさんの場合は、かせぐ場所がたまたま国の外であったということです。」

 これは端的に解説されていて、付け加えることはないが、あえて蛇足を書いてみたい。まず、「家や親兄弟のために苦界に身を沈める娘は親孝行、と世間はみるのが普通でした」とあるが、このサイトの管理者は、心優しい人柄ゆえに、ここまでしか書かなかったものと思われる。『島原の子守歌』の4番は、

あすこん人(し)は二個(ふたち)も
あすこん人(し)は二個(ふたち)も
純金(きん)の指輪(ゆびかね)はめちょらす
金な どこん金 金な どこん金
唐(から)金げなばよ ショウカイナ

 とある。「あすこん人」とは、からゆきから帰国した女性のことで、成金となって「金の指輪」を2つもはめている、と歌っているのだ。金の指輪はどこの金なのか、といえば、唐、つまり外国で稼いだ…と続けている。なにしろ、あばら家で粟飯しか食えない郷土で、金の指輪をはめているのだから、目立っただろう。それを見る郷土の人たちの眼差しの複雑さと、それに耐えて突っ張って指輪を見せびらかす女の心が実によく表現されている。見事な詩である。

 この詩からわかるように、苦海に身を沈めた娘が親孝行とは、必ずしも思われていなかったと思う。嫉妬、軽蔑、賎業で稼いだくせにという蔑視、そんな感情がどろどろと渦巻くのが人間社会である。からゆきに行った女性も、貧困のなかで郷土に残った女性も、互いに憎しみや蔑みの思いを抱いて反目しあったとは、あまりに悲しい。だから「からゆきさんの小部屋」の管理者は書けなかったのだろう。

 ただ、からゆきを親孝行と見るか、だまされて行ったと見るか、誘拐されて連れて行かれたと見るか、それは個々のケースでもちがう。また、郷里で貧困にあえいでいるよりは、からゆきになって稼いだおかげで裕福な暮らしができたケース、あるいは身請けされて外国人と結婚したケース、性病をうつされて悲惨な生活を送ったケースなど、個々に見るとさまざまである。

 とくに世間で誤解している点は、売春とレイプは違うということだ。レイプはれっきとした犯罪だが、売春はしょせん商売だという見方は成り立つ。からゆきは悲惨だと、全般的には言えるだろうが、女は強いものでいったん覚悟ができてしまうと、「儲けたれ!」という心境になって、積極的に客引きをやるようになる場合もあったのだ。(体を)売ればカネになる女がいて、欲望を抱いた男がいて、つまりは需要と供給が合致すると見ることもできないわけではない。

 それに男のほうも、異国の地で売春婦とはいえ、心癒されることもあったのである。ドストエフスキーの『罪と罰』に登場するソーニャは娼婦だが、その心のありように誰でも感動するはずだ。感謝すべきケースもある。
 だからこうした場合には、弁証法性で見る、つまりもっと大きな歴史的視点、ないし過程性を踏まえて理解することが必要だと思う。
 そこで簡単に、からゆきの誕生から生成発展を辿ってみたい。

 島原の歴史はあまりにも悲しい。
 発端は、キリスト教宣教師どもが渡来したところから始まる。ザビエルが、すべての厄を運んできたのだ。当時は戦国の世で、国内は統一されておらず、国と国が互いに食うか食われるかの熾烈な戦いのまっただ中にあった。鉄砲が伝来して…というより、日本の内戦を煽ろうと、ポルトガルやスペイン、支那が鉄砲を売りにきたのだ。それにまんまと乗せられて、戦国大名、小名たちは競って鉄砲を輸入し、あるいは自作した。おかげで民百姓は重い税や賦役を押しつけられて、貧困にさせられたたのだ。

 ところが鉄砲は火薬がなければ役に立たないのであって、これを日本の領主たちが欲しがることを見越して、キリスト教宣教師どもは、耶蘇教の布教とセットにして火薬の取引を始める。九州の大友や有馬らは自らキリシタンになって、宣教師と友誼を結び、輸出するものがないから、領内の女たちをひっ捕らえて奴隷として売った。実に当時ヨーロッパには50万人もの日本人女性が性奴隷として運ばれた。

 白人=キリスト教徒どもは、世界に商売と植民地支配を拡大しつつあったので、兵隊や労役夫を、例えば鉱山とか大農場の百姓とかに必要とした。男を鉱山や農場で働かせれば、それを監督・監視するためにヨーロッパの男どもは現地にとどまる。そこで必要になるのが、女だった。男の労働者たちにも、性処理をさせなければならない、というより、一度与えた賃金をまた巻き上げる装置として娼館が作られたのである。

 アヘンやタバコの吸引をさせたのも、労働者を服従させるためと、アヘンやタバコの売り上げで、再度儲けようという白人どもの悪辣さなのである。そうした売春や麻薬を扱う仕事をさせるために、白人=ユダヤどもは、世界中でマフィア、ギャング、ヤクザといった裏社会を利用、ないし意図的に育てた。世界的な資本主義経済体制の伸張と、戦争ないしヤクザによる売春、麻薬は「直接」の関係にある。

 これをキリスト教徒と称する連中は堂々やったのだから、後に少々廃娼運動をやったからとて、歴史の汚点は消せるものではない。



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2017年02月23日

島原の子守歌の魂(2/4)


《2》
 『島原の子守り歌』を作詞した宮崎康平は、島原鉄道の重役だったが、なにより邪馬台国の研究家として有名である。「からゆきさんの小部屋」の主宰者の方から教えていただいたが、宮崎康平は歌手さだまさしの恩人でもあり、『関白宣言』は彼をうたったもの、だそうである。
 以下、「宮崎康平のページ」というサイトを参考に紹介する。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1430/page036.html

 1917年長崎県島原市生まれ。早稲田大学文学部時代は森繁久彌らと演劇をやり、卒業後東宝に入社したが、兄の死去により帰郷して家業の土建業を継いだ。戦後、病没の父に代わって島原鉄道に入社、過労のため失明。33歳の若さだった。と同時に妻が出奔し、乳飲み子を置き去りにされた。このときの経験を下敷きに作詞されたのが絶唱『島原の子守り歌』である。

 しかし、宮崎氏のこの逆境からの立ち直りが素晴らしい。
 「だが、この失明は、かえって彼に闘志と活力を与えた。以後、事業に、地域の開発に、そして邪馬台国の探求にと、常人以上の精力的活動がはじまる。かくて、島原鉄道には快速のディーゼルカーが走り、バス路線は伸び、島原半島には乳牛が草を食み、たわわなバナナが南国の陽に映えた。新しい妻和子さんを眼とし、杖とし、ペンとして、記紀、倭人伝を500回も精読し、日本各地の遺跡を探り、遂にこの『まぼろしの邪馬台国』がなった」(同サイトから)

 片や福沢や伊藤のようなクソ野郎もいるが、宮崎康平氏のような日本の誇りもおられるのである。江戸中期の盲目の国学者・塙保己一のような人である。塙保己一も人に書物を音読してもらって暗記し、『群書類従』を著した。
 『まぼろしの邪馬台国』は昭和42年、大ベストセラーになった。無名の学究が彗星のごとく登場したことに、歴史学会は衝撃を受けたものだった。彼の投じた一石で「邪馬台国論争」が起きたのであった。第一回吉川英治文化賞を授賞している。作家・城山三郎の『盲人重役』は宮崎康平をモデルにした作品である。1980年没。「宮崎康平記念館」まである。

 宮崎氏の生きざまこそ見事である。われわれは自身の怠惰を本当に恥じなければならない。だから私は、歩けなくなったとか目が見えないとかですぐ車椅子に乗って人様に押してもらう人間とか、辛いことがあったから悩んで心の病になりましたとか言う人を批判するのである。ブログでもこのことを再三言ってきたが、そうすると必ず、障害者への苛めだ、差別だとコメントが来る。何が差別だ、宮崎康平さんを見習え。

 また、彼は昭和15年、大東亜戦争の前年に早大を卒業しているから、いわゆる旧制高校の魂を学んだ世代である。宮崎康平は旧制高校の魂を把持した。これこそが「心に青雲」を抱いて苦難を乗り越えたということなのだ。
 彼は、絶唱『島原の子守り歌』をつくって、昔のからゆきの境涯に同情し悼んだだけではないのだ。からゆきの出ていかざるを得なかった極貧の社会を変えたのである。だから「かくて、島原鉄道には快速のディーゼルカーが走り、バス路線は伸び、島原半島には乳牛が草を食み、たわわなバナナが南国の陽に映えた」というサイトの文言になるのである。それを妻に捨てられ、乳飲み子を抱いて呆然と…はしなかった彼・宮崎康平が成し遂げたのである。

 ついでに仏教批判をしておくと、からゆきたちに手を差し伸べた坊主は誰もいなかった、たった一人裸足の僧・広田言証を除けば…。広田言証は裸足で托鉢しながら北はシベリア・満州から南は東南アジアやインドのジャングルまで歩いて、からゆきさんを訪ね、施餓鬼供養をした人物である。言証については後述するとして、まずは仏教僧の人でなしどもである。

 からゆきたちは、貧しい実家の家計を少しでも助けようと、必死になって故国に送金した。そして自分の死後の墓や死んだ仲間の供養のために、寺院に多額の寄進をした。文字通り身を削ったカネである。寄進された寺では、そのカネを受け取って、なにがし読経しただけであっただろう。仏の道を説くなら、どうして女たちを救おうとしないのだ?

 昔はどこの田舎に行っても、農家はまずしく、男も女も幼児のときから奉公に出され「粟ん飯」を食い、「あばら屋じゃけんど」だったのに、寺だけは武家屋敷並の威風堂々立派な造りであったが、あれこそ、貧しい百姓を地獄に落ちるぞとか、仏を拝まないと先祖が苦しんでいるぞなどと脅して、カネを(布施として)巻き上げた名残=証拠である。死ねば死んだで葬式代や戒名代をふんだくった。巻き上げたカネ(銭)は、本山にも納められた。本山は一大フィナンシャルグループとなり、貴族や武士らにカネを貸しなどして大勢力となった。

 そのわれわれ庶民を虐げ、収奪してきた天皇家や僧侶に向かって、ありがたい、もったいないと掌をあわせるのだから、いったいこれは何だろうか? 何千年、こんな愚行をやったら人は目覚めるのだろう。
 世間ではともすれば、オウム真理教や創価学会など新興宗教だけを「カルト」と言って蔑むけれど、在来仏教だって耶蘇教だって、宗教の基本は同じであって、蔑むべき対象である。さんざん殺戮をやり、貧民をだまして富を巻き上げてきたのだ。なんでそんなものを信仰するんです、みなさん?

 現世が不安だからですか? でも宮崎康平さんを見なさいよ。盲目になっても信仰なんかにすがらずに、世のため人のため、いばらの道を切り拓いたではないですか。
 さて、先ほど述べた広田言証であるが、彼は明治年間に海外のからゆきを訪ねて巡礼の旅をした人物である。酷寒のシベリアから南方のジャングルまで、娼館のからゆきを集めては施餓鬼供養を行った。そのとき、彼女らは一心に掌をあわせて拝み、布施を包んだのである。

 何を彼女らは祈ったのだろうか。故郷の親族の無事を、だろうか。それとも自分が故国に帰還する日の早からんことを、か? 身を削って得た貴重なカネ…ゴロツキ女衒に言われなき借金苦を背負わされて返済に追われていながら…、貯めたカネを布施にして故国の寺院に寄付してしまう…。そのカネは「浄財」などと体裁のいい言葉に換えられ、言証によって持ち帰られ、島原市の大師通りにある理性院大師堂の「玉垣と天如塔(からゆきの尖塔)」に化けた。

 言証としては善意であり、そうする他なかったのかとも思うが、からゆきさんの貴重なカネを、坊主と石屋が儲けて、こんな玉垣に換わっただけというのは、あまりに悲しい。せめて彼女らにおいしいものでも食べさせ、きれいな着物でも好きに買わせてやりたいではないか。あるいは故国に帰して、ゆっくり温泉にでもつかってもらいたいではないか。

 玉垣には紅の文字で「阿南トンキン 高谷マサ 六十円」とか「マンデレイ 前田フユ 七円」などとある。明治、大正期のカネにして60円とか7円とかいうのだ。なかなかの大金だったかと思うべきである。この玉垣だけが彼女たちの生きた証しである。これも先の「からゆきさんの小部屋」のサイトで写真が見られる。私たちは、今となっては、彼女ら同胞の在りし日を想ってあげる以外に、いわゆる供養の手段はないのであるが…。まずは彼女らの在りし日々の姿を知らねば始まらない。



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2017年02月22日

島原の子守歌の魂(1/4)


《1》
 道場で講義をした際に、道場生に『島原の子守歌』を知っているか? と聞くと、誰も知らないという。そこで歌を聞けば思い出すかと、私が歌ってみせたが、一度も聞いたことがないと首をふる。『五木の子守唄』は? と聞くと、これはさすがに知っていた。
 日本人なら『五木の子守唄』と同様に、『島原の子守歌』くらいは知っていなければならない歌なのではないか?

 なぜならば、そこに官許歴史が隠す“本当の日本人の歴史”が隠されているからである。いずれも“子守唄”といいながら、子守りのときに歌ったというより、あまりに悲惨な自身の境涯を嘆くつぶやきに近い。
 『五木の子守唄』は、さまざまな歌詞があって、作詞者は不明である。無名の貧民によって歌い継がれるうちに、改変が進んだものと思われる。それに対して『島原の子守歌』は、作詞・作曲者ははっきりしていて、宮崎康平氏である(1959年作)。宮崎氏については後述する。

 島原の子守り歌は、「おどみゃ島原の おどみゃ島原の なしの木育ちよ…」という歌詞。
 これ以下の歌詞は、「からゆきさんの小部屋」というサイトかをご覧ください。
http://www.karayukisan.jp/no7/index.html
 ここで芹洋子さんの歌声で聴くことができる。悲しい歌を心のこもった優しさで歌い、心にしみる。歌詞は方言なので、意味がとりにくいが、同サイトや、「島原の子守り歌」のサイト
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/8142/lullaby.htmで解説されている。

「からゆきさんの小部屋」からの引用と書いたとおり、『島原の子守り歌』は、からゆきさんを歌ったものである。この「からゆき」についても、私の弟子に尋ねたが、誰も知らず、驚いた。
 からゆきとは、江戸時代末期から昭和20年までのあいだに外国に娼婦として売られていった女性たちである。端的に言えば国に捨てられたのだ。 からゆきは天草や島原が最も多かったそうだ。

 アフリカ西岸に「黄金海岸」という奴隷を運び出した土地に付けられた名前があるが、島原から口ノ津あたりの海岸を「白銀海岸(シルバーサイド)」と呼んだのは、こうした誘拐されたりだまされたりした女たちが密航していった場所だからである。
 歌詞のなかの文言に「鬼(おん)の池の久助どんの連れんこらるばい」とは、鬼池の久助という女衒が人さらいにきて、連れていくぞ、という意味である。

 また3番の歌詞にある「青煙突のバッタンフール」とは、英国貨物船のことで、青煙突がトレードマークだった。この船は北九州で産出する石炭を東南アジアに輸出するために往来していたが、からゆきの密航を乗せた。乗せられた女たちは、真っ暗な船底に押し込められ、飯もろくに与えられず、石炭の中に糞尿垂れながしにさせられ、道中屈強な船員たちに強姦され続けて行ったのだった。

 からゆきが、教科書には載っていなくても、われら同胞がかくも悲惨な目にあっていたことは、常識になっていなければなるまい。

 例えば、からゆきさんについては、森崎和江、山崎朋子、山田盟子、工藤美代子、谷川健一といった人たちの研究書があるし、文学作品としては、円地文子『南の肌』、秋元松代『村岡伊平治伝』、宮本研『からゆきさん』など多数ある。これらの一つ二つくらいは読んでいなければ、われわれが生きているこの日本社会というものがわかるわけがなかろう。

 言っておくけれど、からゆきは決して昔の話ではない。今は逆にフィリピン、韓国、ロシア、支那などなど世界中から「ジャパゆきさん」として身を売る女性が日本へやってきている。チリから来たアニータなる悪辣なジャパゆきさんに、青森住宅供給公社のバカ男が14億も貢いでしまった事件があったが…。

 それに、現代日本の女性にしても、OLだとか派遣社員とかも、基本構造は同じであって、昔のからゆきよりも相対的にカネは入るようになっただけのことである。劇作家・秋元松代氏が書いた『村岡伊平治伝』の村岡伊平治は、からゆき女性の生き血を吸って巨利を得た女衒の親玉である。

 われわれの先祖は天皇族とその配下の権力者によって、部落民とされて、千数百年に渡って虐げられてきたのだ。男は戦争に狩り出されて殺された。女は十代半ばから娼婦とされて世界中にバラまかれ、国にも家族にも捨てられて死んでいった。民衆は税金でしぼりとられるだけ収奪されてきた。だから「産めよ増やせよ」だったのだ。それが日本の本当の歴史である。

 慶応義塾をつくった福沢諭吉が、女性を海外に売り飛ばすことを推奨した。同じく明治の元勲・伊藤博文も女衒・村岡伊平治がゴロツキを集めて女性を誘拐したりだましたりして、海外に連れていき売春させる仕掛け(犯罪)を賞賛し、女郎屋をもっと増やせと言っているのである。こういう福沢や伊藤をわれわれは紙幣(1万円札)の顔にしていた(いる)のだから、日本の恥である。




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2017年02月21日

日本人のココロのルーツ



 ある人から、こう尋ねられた。
 「あなたは自分を唯物論者だと言っている。そして21世紀は学問や芸術なども唯物論で創りなおすのだと説いている。しかし、日本には山川草木すべてに神が宿るという神道の捉え方がある、これについてはどう考えているのか。迷信といって排除するのか。神道の考え方は、日本人であるあなたの心の素養にもなっていると思う。これを否定することはできないのではないか?」

 これは良い質問だ。唯物論では日本人の魂をどう捉えるか詳らかにせよというのだろう。以下に私がどう答えたかを再現してみる。

 日本における神と人の関係は、大きくは祖霊(それい)、御霊(ごりょう)、自然神にわかれる。祖霊は先祖の神様、御霊は先祖神に近いが祟り神、自然神は岩とか植物などの自然物である。「能」はこのいずれにも関わる芸能であり、また神事である。
 この件については、昨年秋に書いた「能」の記述に詳しく述べた。
 今回の質問は主に自然神に関わる質問だとして、先に進もう。

 拙ブログで何度もくり返し紹介したが、エルンスト・ヘッケルが発見した「個体発生は系統発生をくりかえす」は見事な法則である。ある動物の発生はその動物の進化の道筋をたどって行われる、というより辿らなければならない、とするものだ。
 この「個体発生は系統発生を繰り返す」という法則は「個人の成長過程は人類史を繰り返す」ともなる。言い方を変えれば「人間は胎内で生物進化の一般性をたどるが、成長過程でも人類の歴史の一般性を辿るのだ、と。「成長過程でも一般性を辿る」とは、たとえば赤ちゃんのハイハイは両生類段階を経験しているわけで、両生類の運動をしなければ哺乳類になれない。認識の成長でもである。

 『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)には、こうある。
 「人間は二重の意味で『いのちの歴史』を歩まされています。一つは生物としての人間歴史として、もう一つは個としての人間の歴史として。このようにして人間は人間になってきているのです…」

 私たちは赤ん坊のころから、“生命体にとっての発生のくり返し”とともに、“人類の文化史のくり返し”をやらなければならない。私たちが幼児から小学校、中学校、高校へと受ける教育は、“人類の文化史のくり返し”なのである。
 端的に言えば、私たちは子どもの頃から、人類の、だけでなく日本人の、原初からの文化史のくり返しを経験しなければならない。

 よって原始人のアタマとココロであった「鳥獣木草すべてに神が宿る」を通過しなければならないのである。
 外国で生まれ育って青年になって帰国した人と接すると、日本語はできるのだが何となく違和感を覚えると思うが、その原因がこれではあるまいか。

 近隣に鎮守の森があり、路傍に地蔵が鎮座し、正月には初詣に行き、寝床の中で祖母や親から昔話を聴き、怖い幽霊の話に震え、お雛様を飾り、先祖の墓参りをし、お盆の行事をやり、(外国の習慣だが)サンタさんを信じ……と、誰でも子どものころに経験した、そういった原初の観念論は、なくてはならないものなのである。

 たしか三浦つとむさんは、自分は子どものころから神様なんか信じていなかった、と書いていたと思うが、それはたぶんウソであり、また本当ならそれではまずいのだ。
 しかし大人になったら、先に言った神に関わる行事を真っ正直に信じるヤツはおかしい人間である。神がいるわけはないと、思わないのは知恵遅れでしかない。大人にもなって正月にこぞって初詣なんかに行き、銭を放り込んでくるのはアホである。本人も神に祈って家内安全大願成就が叶うとは思っていまいに。祈れば願いが叶うなら、全員が宝くじに当たっていいはずじゃないかネ。

 こう書くと猛烈な反発があろうけれど、まちがいはまちがいなのだ。しかし、それは子どもには必要なものである。
 人類は、観念論(宗教)を通過してから、ようやく今、唯物論の世界へと進歩してきたからである。

 宮本武蔵も戦国末期から江戸初期の人だから、片足は宗教に突っ込んでいる。晩年は寺に住んだというが、決闘のさいには「われ神仏をたのまず」と言ったとか。そうやって徐々に我等の先祖は観念論から唯物論へと移行してきたのである。

 原始時代の人間は、稲は太陽や水の神が恵んでくれたのだ、洪水や土砂崩れは神の怒りだと、そう思って当然であろう。だから日本人は「山川草木」すべてに神が宿る、と思い、シンキロウ首相が、日本は神の国だと言ったことに賛同する。それはまあ良しとしても、21世紀になってもまだ宗教かよ、なのである。

 唯物論が正しいとはいうものの、子どもにいきなり唯物論でものを考えさせるのは好ましくない。
 なぜなら、これはどうせ大人になったらセックスするのだから、小学生からだって愛があればいいんだよ、というようなものになる。
 観念論の経験なしに唯物論から出発したら、子どもが生まれたのは親の愛情なんかではなくて、動物的な交尾のせいだ、などという話にもなりかねない。

 ものには順序があり、時期がある。
 いきなり唯物論では、ココロとは何かがわからない。子どもは例えば、神様という捉え方を通じて「優しさ」とか「人に尽くす」とか、怒りとかを学ぶのである。亡くなった先祖が自分たちを守ってくれるから自分も親や兄弟を大事にするんだなとか、小さなアリにも命があって、むやみに踏んづけてはいけない、とかを知るのだ。

 こうも言えるだろう。3歳児までは「即自」でしかあり得ず、そこから「対自」の目覚めていくには、相互浸透の対象として「カミ」のごときものがあったほうが、そこから先に「即自対自」へと量質転化しなければならないけれど、そこで唯物論を教育されるかどうか…であろうか。

 京都や奈良にある神社仏閣は、大人が信仰の対象にするべきものではない。われら先祖が今日の私たちにつながる文化を創ってくれた、過去の生きざまとか文化を偲ぶ対象である。
 あれらは全部幼児語でいえば「ののさま」となるであろう。
 亡くなった人を「ののさま」と言う。お月様も「ののさま」だし、仏さんも「ののさま」。あらゆる霊的なものを認めた場合に、幼児語で「ののさま」なのだ。

 先に能の話をちょっとしたが、能には仏教が日本に入って来る前の日本固有の、いわば国家が出来る前の、日本人のココロのルーツに辿っていけるものがある。以前にも書いたが、能が藝術となったのは、明治以降のことであって、江戸期までは明らかに神事(非業の死をとげた人間による祟りの防止)である。
 根本には人間が神になるという考えがある。死んだ人のことを仏様とは言うものの、本来の仏教では仏様とは悟った人を指す。解脱した人。だが日本人はそれを受け付けない。カミと言う代わりに仏と呼ぶ。西洋人の言うゴッドとは全然ちがう。

 だから死んだ人=神になった人を悪く言わない。支那人は死んだ人間をあしざまに扱って平気である。日本では仏=神の悪口はタブーだ。これが本来の日本人のルーツ、またはハイマート(故郷)なのである。
 ルーツを辿るとは「系統発生をくり返す」ことなのだ。原初からの系統発生を辿らなくては、われわれは21世紀の人間足りえまい。




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