2017年06月10日

安倍首相が愛想をつかされる日


 日本の首相が政府専用機に乗って外国を公式訪問するさい、機からタラップを降りて来るときに、夫婦で手をつないでみせるのは、安倍晋三が第一次内閣のときからであったと思う。それまでの歴代首相ではなかったことだったから、仰天させられたものだった。「美しい日本」とか「日本を取り戻す」とか言いながら、どうしたってなじまない行為である。

 他事ながら、私の両親は外出する時に生涯一度も手をつなぐことはなかった。母は新婚のときから父に、「道を歩くときは少し離れて後からついてきなさい。一緒にならんではいけない」と言い渡されたそうだ。
 そんなことを私も聴いて育ったし、周囲もそんなものだったから、安倍晋三の「仲睦まじさ」は異様に思えた。

 昭和天皇の場合も、歩くときは皇后は決して並ばず、やや後ろに下がっていたし、大衆に手を振るときも天皇より手を高く掲げることはなかった。これが正しく美しい。
 ところが現今の美智子皇后は、天皇にべったり付き添い、介護するかのように支えあって歩き、ときに天皇より前に出るし、手を振るときは天皇より高くしてお構いなし。

 「女帝」という意識がそうさせるのか…。
 あの皿をアタマに乗せたような妙な帽子はなんとかならないものか。

 今は男女平等だと言いたいのであろうが、この人前で夫婦べたつく風習は日本ではない。これは男尊女卑ではない。古来のありようは男女、夫婦の互いの尊敬の表現であり、実践である。何も西洋のマネをするだけが男女同権ではない。
 西洋の習慣のように、しいて人前でベタベタいなくても夫婦が仲がいいとか、他人に顰蹙されることはないと日本人なら自然に修得している。

 だから安倍首相が、あの夫人の手をとって歩いてくるさまを人様に見せつけるのを見たとき、私は、安倍は取り戻すべき日本文化が実のところわかっていないと思えた。一事が万事であった。

 つまり、夫婦で手をつないで(幼稚園児じゃあるまいし)、人前に出る無神経さが、彼の取る政策の端々に露呈するのだ。
 第一次政権の失敗をどうも深刻には反省していない(できない)らしい。
 一昨年暮れの日韓合意にしろ、天皇譲位の法案にしろ、安保法制にしろ、外国人労働者受け入れ増大策にしろ、農業の根幹たる種苗を外国産に切り替える方針にしろ、TPP参加にしろ、九条に第3項を加える案にしろ、靖国神社参拝の放棄にしろ、安倍は彼の支持基盤のコアをなす層をことごとく裏切ってきた。

 その淵源は些細なことでありながら、されど安倍の甘い認識、主体性のない認識が、あの「夫婦のお手手つないで…」の重大な認識の発露となっているからだ。

 6月7日付の西尾幹二氏のブログ「インターネット日録」より引用させていただく。
    *       *

 憲法9条1項、2項を残して3項を新設するという5月3日の安倍発言にはまたしても、ブレーンと称する人々の入れ智恵があったのである。安倍さんは自分で考えたのではない。他人にアイデアを与えられている。「今まったく同じことが始まっている」と私が産經論文の結びに書いた一文は証拠をもって裏付けられた形である。

 森友学園も加計学園もそれ自体はたいした事件ではないと私は思う。けれども思い出していたゞきたい。第一次安倍内閣でも閣僚の事務所経理問題が次々とあばかれ、さいごに「バンソウ膏大臣」が登場してひんしゅくを買い、幕切れとなったことを覚えておられるだろう。野党とメディアは今度も同じ戦略を用い、前回より大規模に仕掛けている。

 同じ罠につづけて二度嵌められるというのは総理ともあろうものが余りに愚かではないだろうか。しかも同じ例のブレーンの戦略に乗せられてのことである。
 憲法改正3項新設もこの同じ罠の中にある。

 安倍さんは人を見る目がない。近づいてくる人の忠誠心にウラがあることが読めない。「脇が甘い」ことは今度の件で広く知れ渡り、今は黙っている自民党の面々も多分ウンザリしているに相違ない。
 保守の核心層もそろそろ愛想をつかし始めているのではないだろうか。櫻井よしこ氏や日本会議は保守の核心層ではない。

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 まったく私も同感である。とりわけ安倍首相に「人を見る目がない」には完全に同意する。
 現在国会で大騒動を巻き起こした、お友だちと称する籠池某や加計某の人間としての質の悪さは目を覆うべきものがある。
 顔つきが悪い。それが見抜けないとは…。

 稲田朋美を自分後継者に育てようというのも、ムチャクチャである。まったく人を見る目が欠如している。
 第一、人さまの女房のことだが、昭恵夫人はスジが悪すぎだ。
 どうしてあんな女と結婚したのか、というのが、多くの日本国民の思いではなかろうか。

 夫の仕事の足を引っ張ってばかり。韓国大好き。週刊誌やテレビにしゃしゃり出る。都内でスナックを経営している。夫の批判をマスゴミでしゃべる。
 青山繁晴氏が紹介していた話では、青山が安倍の家に行ったときに、夫人は客人に挨拶もなければ、水一杯出さなかったという。応接室に勝手に入って来て、大音量でステレオをかけ、青山と安倍が大声で話をしなければならなくなったとか。それでも安倍は夫人に注意もしないし、「おい、お茶」とも言えない。

 この話はショックだった。そんなことがあるのか、と。実にこの夫婦のダメさ加減を象徴している。「それはいけません」と忠告してさしあげる取り巻きが誰もいないようだ。
 こういうダメさ加減が、最後には安倍が行き詰まって政権から追い立てられる羽目になるのではないか。
 西尾氏が書くように「保守の核心層もそろそろ愛想をつかし始めているのではないだろうか」とあるが、そのとおりだろう。

 ただ、他に日本の左傾化をいささかでも防ぎ得るであろう人物が自民党にいないから、しかたなく支持しているにすぎまい。




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2017年06月06日

「地球温暖化」はポリティカル・コレクトネス


 トランプ大統領が、アメリカはパリ協定(気候変動枠組条約)からの離脱を宣言したことで、マスゴミはいっせいにトランプを非難しはじめた。トランプはやっぱり悪い奴だというのだ。
 日本でもそれに同調して、政府もマスゴミもトランプは人類の敵だの、怒りを覚えるなどと最大級の罵詈雑言。

 まったく勉強しないで、良い子になりたがる奴ばっかり。
 実際問題として地球全体としては温暖化していないし、二酸化炭素も多くはなっていない。因果関係もない、と科学の見地からは段下されているのに、温暖化阻止は絶対正義だとか、エコがいいんだとか、マスゴミが煽り、多くの大衆が地球規模で賛同している。
 バカ言ってんじゃないよ〜♪

 昔から、地球温暖化は科学者のあいだでは、こんなものは科学ではなく「政治」だとわかっていた。ところが科学者のなかにその動きに迎合するバカが出てきて、政府の諮問機関の委員になったりして金儲けを企んだ。
 科学者たちが勇気をもって、地球温暖化はウソだと発言すれば、これほどまでに「国際詐欺」が大手をふって跋扈することはなかったろうに。

 マスゴミも地球に優しくなどと言っていれば楽に記事が書け、政府や経済人が渋ると、それっとばかりに攻撃することができる。逆に地球温暖化や「地球に優しい」やエコに逆らえば、テメエたちの新聞が売れなくなる。で、大ウソに迎合してきた。

 トランプはパリ協定から離脱すると言ったが、実際に離脱できるのは3年半後だとかで、「すぐに」の話ではない。離脱が実現するころは、トランプは二期目の大統領選の真っ最中だから、どう転ぶかわかりはしない。
 それに二酸化炭素と地球温暖化の話がウソだと、科学の話はいっさいしないで、アメリカの利益に反するから止める、というのみである。「あんなものはウソだ」と、世界の指導者たちはわかっているだろうに、それを公言しないのは、日本苛めが背景にあるのだ。

 京都議定書のときは、日本だけがバカを見る体制にして、欧州諸国はずるをやった。今度もそんなものだろう。

 パリ協定もポリティカル・コレクトネス(political correctness)の一種である。
 ポリティカル・コレクトネスとは、「日本語で政治的に正しい言葉遣いとも呼ばれる、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・障害者・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す」とwikipedia では解説するが、最近では逆差別として批判される。

 人種、民主主義、人権、平等、などのように、誰もが反対できなさそうな概念で、人の意見や行動にレッテルを貼って非難する。地球温暖化だとかエコなどもそうであって、反対する意見は頭から排斥される。
 本ブログでも例えば、同性愛や性同一性症候群なんかは精神病だと断言したことがあるが、山のように「差別だ」非難のコメントが殺到したものだった。

 こういうのをポリティカル・コレクトネスというのである。マスゴミも教育界も政治の場でもこれが跋扈している。科学的検証が許されない。日本では憲法9条がそれになっている。サヨクどもがポリティカル・コレクトネスにしている。

 だからトランプはパリ協定はポリティカル・コレクトネスだから、正気に戻ろうと言えばいいのに、それは言わない。しょせん、彼はビジネスマンでしかなく、科学は考えられず、人類の歴史に残る政治家になる気はないのである。



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2017年06月01日

顔つきからみえるもの


 年をとると、人生経験がつみかさなってくるせいもあって、人の顔つきの好悪、評価がきつくなる。
 顔を見ただけで、どの程度の人間かが容易く見てとれるようになる。

 最近では「これはひどい」と思わされたのが、眞子内親王の婚約予定者として一躍脚光を浴びた小室圭なる青年であった。皇室もここまで落ちたか、と長嘆息せざるを得なかった。
 「海の王子」という江ノ島のイベントで優勝したときの顔つきといったら、ただのチャラ男で、教養のカケラもない顔つきである。性格も良いとはいいがたい顔である。

 いずれ皇籍離脱する女性だから、国民としては知ったことではないにせよ、民進党どもが画策する「女性宮家」案が法律にされると、あろうことか、小室圭は皇族の一人になるのだ。正視に耐えない顔をずっと、なにかにつけ見せられるのはたまったものではない。

 小室は父親が自殺している。圭少年に罪はないけれど、心に受けた傷は深かろう。これはよほど注意しないと、性格になにがしか影響が出かねないものである。心の病い自体が遺伝するわけではないが、心の病いを発症した父親がいたということは、その家庭環境に問題があったのではないかと危惧し得る。

 好きになったんだからどうしようもないけれど、私なら結婚は躊躇するけどね…。
 雅子皇太子妃が心の病いを発症した人間だから、実子の愛子もおかしくなっている。遺伝のせいではないが、心の問題をかかえた親が育てれば、子の認識も無事では済まない。

 そういうことが見て取れないでチャラ男に惚れるのだから、しょせんは知性レベルが知れる。

 しかも韓国人ではないかと言われる。本当にそうなら、眞子さんは結婚してからが大変だ。家庭のなかで、夫から何かにつけて「お前は日本人だから…」と責められ、嫌味を言われかねない。日帝35年、いや千年の恨みの認識を持っているのだから、夫婦ケンカのたびごとにその感情に火がつくのだ。
 新婚時代は夫はネコをかぶっているだろうが、10年、20年経つと本性を現す。そういう恐れを誰か皇族の人は教えてやらないのだろうか。
 
 眞子内親王はそれこそ深窓の令嬢で、世間の荒波を知らない。結婚してもある程度それを理解してくれる夫や親族に囲まれればいいと思う。それにはやはり皇族同士で見合いをして結婚するのが一番良いのではなかろうか。

 次に顔つきの悪さでいえば、ゴルフの宮里藍だ。彼女が引退を発表した。彼女のデビュー以来、顔つきが悪いなあと呆れていた。インタビューの受け答えも実に横柄な印象で、「かわいげ」がない。言葉遣いに、どこか高慢ちきな印象を与える。
 デビューしてすぐ宮里はアメリカに行ってしまったから、新聞に出る頻度が減って、顔を見ること少なくなってまことに良かった。

 アメリカみたいな嫌な国に平気で移れるのは、性格に「やまとなでしこ」の要素がないからだろう。日本よりアメリカが住みやすいと感じるのだから、異様である。




posted by 心に青雲 at 11:01| 東京 ☀| Comment(1) | エッセイ | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

ロシアゲート事件はネオコンの策謀


 アメリカでは“ロシアゲート”をめぐり、「トランプ政権VS司法省+連邦議会+メディア」の死闘が本格化しようとしている。
 日本のメディアは、アメリカ主要メディアの後追いしかできないから、トランプが悪いことをやって、「正義の司法」から追い詰められ、やがてニクソンの“ウォーターゲート事件”のように、弾劾されていくのではないかという論調である。

 トランプ政権側は、国家機密をロシアのラズロフ外相に漏らしてはいないというのだから、その主張を検証すべきなのがメディアの責任であろうに、反トランプ勢力のメディアの言うままに「初めにトランプの不正ありき」で報道する。

 馬渕睦夫氏がDHCテレビの「和の国の明日を造る(第49回)」でこれを解説していた(5月24日)。
 馬渕氏は大使を務めた人だから、首脳同士の会議の裏側を知っている。で、言うには、首脳会談というのは、あらかじめ議題も結論も国同士ですりあわせてあって、今回のように大統領が相手国の首脳やその代理に勝手に機密情報どころか、予定外のことはしゃべらないものなのだそうだ。

 それぞれ大統領なり首相なりは、もうできあがったシナリオにしたがって「会談」することになる。いわばセレモニーなのである。
 会談の前に中身は決まっている。共同宣言も決まっている。首脳同士が膝つきあわせて密談し、合意に達することではない、というのである。
 だからいかにトランプ個人が軽佻浮薄だとしても、事務方の意向に反してうかつにロシア側に言ってはいけないことをしゃべれないのである。

 だから、プーチンがすかさずトランプ・ラズロフ会談の記録を提出してやってもいいぞと発言したのだ。証拠はあるのだ。
 しかし、アメリカとロシアが接近することを望まないのがネオコンであるから、それは無視する。

 評論家の佐藤優が、したり顔で「トランプは一線を超えた」などと新聞に書いていたが、こんなのは冷笑していると馬渕氏は言っていた。現在の外交のシステムのなかでは「一線」など超えようがない。
 トランプ側としては、首脳会談はこういうセレモニーだと反論はしにくいだろう。国民はみんな首脳会談ではいわば本音で首脳が話し合うのだと信じ込んでいるからだ。

 だから、トランプは「機密は漏らしてない」としか言いようがない。そこを狙って、「司法省+議会+メディア」は、漏らしたにちがいないと言い募るわけだ。で、特別検察官を任命して徹底的に調べるぞと嫌がらせをする。
 トランプ側のイメージが悪くなることは避けられない。

 だからニクソン大統領が無実にも関わらず辞任に追い込まれた先例と同じになることを、「司法省+議会+メディア」すなわち、民主党、グローバリスト(国際金融資本)、ネオコンは一体となって狙う。トランプを引きずりおろしたい連中は、ニクソンに“ウォーターゲート事件”を仕掛けた連中と同じネオコンだからである。
 トランプを「保護主義」とか「ポピュリズム」と非難する勢力はみな、これである。

 日本のマスゴミは、米国メディアと連動して、アンチ保護主義、アンチポピュリズム、アンチナショナリズムの大合唱である。
 実にわかりやすい構図になっている。
 馬淵氏は、ネオコンの策謀は“ウォーターゲート事件”では成功したが、今度は成功しないだろうと期待を込めて言っておくと述べる。なぜならニクソンのころは情報はマスゴミが独占していたが、今ではネットが発達して、マスゴミは大衆を洗脳しきれず、反撃を喰らうようになったからだ、と。

 まことにその通りだ。なんでもマスゴミが良いように報道して世論を誘導する時代は終わりつつある。すばらしい。



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2017年05月23日

誰も言わないタバコの害


 私はタバコは一度も吸ったことがない。
 高校では多くの級友が隠れて吸っていただろうし、大学ではほとんどが吸っていたが、私はまったく興味が湧かなかったし、嫌悪を抱いていた。

 タバコがカラダに悪いからでもあるし、ただ大人のマネをしたいだけで背伸びしてタバコを吸うような愚かなことはしたくなかった。
 大人になるということは決してタバコを吸うことではないという信念があった。煙を吸わされると、ひどい悪臭でしかない。喫煙者がトイレに入ってウンコをしたあとは、鼻がひんまがるような強烈な悪臭充満であるのに、喫煙者はよく平気でいられるものだ。自分じゃ気が付かないんだろうねえ。

 自分は快適だからといって、他人の不快、迷惑を一切無視するその態度にはいつも怒りを覚える。
 最近、厚労省が飲食店を全面禁煙化しようと企てていて、それに自民党議員が抵抗しているやに聞く。
 私は小さな酒場まで法律でしばって禁煙にしようというのは、やりすぎではないかと思わないでもない。

 しかし、これまで喫煙者はさんざんタバコを吸っては非喫煙者を苦しめて平然としてやってきたのだから、これは報いである。本当にいい世の中になったものだ。

 タバコが嫌なら小さな居酒屋やバーに行かなければいいだけの話で、酒を飲みながらどうしても紫煙を楽しみたい向きには、勝手にしろというところだが、さりとてこれまでの人生で、喫煙者にさんざん嫌な目にあわされてきた私の感情からは、いい気味だとも思うのである。

 酒場を禁煙にするのに反対しているのは、国会議員ではあるが、表に出て来ないが本当に反対なのは財務省である。タバコを吸う奴が減って税収が減るのが財務省は嫌なのである。
 厚労省がタバコはカラダに悪いですよ、とキャンペーンをやりパンフレットを配ろうとすると、激しく妨害に出るのが財務省であった。厚労省への予算を減らすぞと脅すのである。

 タバコの箱に、アメリカ辺りでは毒です、健康が損なわれますとはっきり書かれているようだが、日本ではあいまいな表現にさせられているのは、財務省の横やりのせいである。
 財務省のクズどもは、日本人同胞の健康より、税収の減るのが許せないのだ。だから、今度の小さな酒場まで禁煙にしようという厚労省のチャレンジは、裏で自民党議員をつかって抵抗しているはずである。

 日本にどうしてもカジノを解禁させたいのも、財務省だろうと私は睨んでいる。タバコの税収が落ちて来たから、代わりに博打で税金を巻き上げようとする魂胆だろう。
 財務省に巣食う東大出の秀才は、かくのごとく薄情になれる。

 タバコには微量の阿片が含まれている。政府は、国民に覚醒剤はダメ、大麻はダメ、ヘロインはダメと言いながら、害にしかならないタバコにはこっそり阿片を仕込んで、習慣化させる狙いなのだ。

 以下は、2006年にブログに書いた「タバコの害について」である。
■ ■

 「たばこの害について」というチェーホフの短編小説があって、ある著名人がたばこの害についての講演をしようと壇上に立ったが、話し始めたら女房のグチばかり言って終わりになった、という愉快な話であった。
 しかし、今回は正真正銘「たばこの害」について把羅剔抉(はらてっけつ)を試みる。
 たばこが循環器などに害があるのは周知のことなので、それについてはことさら述べない。巷間、あまり言われていないことについて述べてみたい。

 それは喫煙者の認識に関わることである。
 昔とちがって、今は飛行機や新幹線でも禁煙スペースが広がり、喫煙者にはたぶん苦しい環境になっているかと思う。この「昔とちがって」がキーワードになる。
 昔は、喫煙者はところ構わずたばこを吸って、害煙をまき散らしていた。その環境下では、体の害は問題にはなっても、とくに認識の問題は生じなかったといってよい。ところが、今は公共の場でたばこを吸うと(自宅でもだろうが)、周囲の冷たい視線を浴びることになる。ここが大きな問題として出来したのだ。

 自分ではおいしく気分よくタバコを吸いたいのだろう。だが、周囲の冷たい目はある。それを気分よくたばこを嗜むためには、周囲の視線を気にしない必要がある。たばこに火をつける→周囲の冷たい視線が突きささる→周囲の目をシャッターを降ろすように見ないことにする→それで落ち着いておいしくタバコがのめる、と、こうなるのである。

 周囲の視線を気にしていたら、たばこがまずくなるものねえ。
 つまり昔はなかった、「周囲のきつい視線」と「シャッターを降ろす」という段階が生じた。これが認識にいかなる変化をもたらしたか、だ。周囲の非難の視線がきつくなればなるほど、必然、自分の心のなかでのシャッターは厚くしていかなければならない。
 もっと見ないふり、さらに聞こえないふりをしなければならない。

 この認識の動きが、ことタバコに関してだけに留まるなら障害は軽微であろうが、そうは問屋が卸さない。たばこを吸うたび、そのつど、周囲の視線を無視することが毎日、数十回も繰り返しのうえに繰り返されるのである。当然これは量質転化化を引き起こす。

 つまりたばこを嫌う人の視線を感じるか、それを一瞬心のなかで気にしたとたんに、ただちにその反映を打ち消そうとすることになる。これが技化するのだ。嫌なことだけ見たくない(反映したくない)というぜいたくは許されない。端的には反映はすべて打ち消そうとする傾向が強くなってしまう。
 当然ながら、たばこは体に悪い、という事実や医者の忠告にも目をつぶろう、気にしないようにしよう、という認識を形成していく。この面でも、事態は悪化する。

 まさに、衆口(しゅうこう)金を鑠(と)かし、積毀(せっき)骨を銷(け)す、である。
 山寺にこもって修行する坊主のような、反映の拒否、像形成の鈍さを招く。坊主の悟りとは、反映の鈍化であり、感性の摩滅=ボケだという論理展開をされているのは、南ク継正師範である。平たく言えば、坊主も、喫煙者も「対象を感じなくする」という技化をせっせとやっていることになる。げに恐ろしき技化をなさむにや。

 あるいは、気に食わない教師の授業は耳に入ってこないよう技化した落ちこぼれ生徒が、ますます成績が落ちるのと同じ構造である(若ボケ)。
 さらには、長年女房のグチを聞かされてうんざりした亭主が(女房の話をすべて聞こえないよう処理したあげく)定年以降、ボケていくのと同じ構造である。
 もっといえば、カルト宗教にはまった人間が、他人の忠告をいっさい聞かなくなり、教祖さまのいうことだけ信じるという反映の仕方を技化すれば、それもまたボケの形態なのだ、ということである。

 タバコを吸いながら、ボケない手段はない。あらゆるところでたばこを非難する人の視線が集まるからだ。どうしてもたばこを吸いたければ、たばこを大歓迎という人と結婚するとか、勤務中にたばこを全員が吸っている会社にでも勤めるしかない。
 事態はこれだけでは終わらない。「俺は吸いたいのに、規制があって吸えないし、みんなが禁煙禁煙を騒ぐから吸いにくい」という思いは、自分だけボケていくなら、周囲への被害は少ない。しかし往々にして、こういう仕打ちをされた喫煙者は、人を恨むようになる。で、「畜生、吸ってやる。公道で吸って、煙をまき散らして、たばこを吸わないと言っている嫌煙主義者を困らせてやる」という報復の感情すら芽生えかねない。心が荒む。

 まだある。
 こうしてたばこを頑張って吸うとボケると説いたが、そのボケた認識は、機能が歪むうちはまだよい。「ひねくれ」などは機能の歪みレベルだ。だが量質転化して脳細胞という認識を統括している実体までもが本格的にボケてしまう。そうなると、脳細胞は認識を司ると直接に、生理機能をも統括しているので、紫煙に含まれるニコチンやアヘンが体に悪影響を及ぼすのとは別の問題でもって、生理機能までもおかしくしていく。例えば「無気力」が認識だけでなく、体の統括までもが無気力になっていくのである。生理機能の瑞々しさや躍動感はこうして失われる。まさに「病は気から」は、ここでも真実である。

 こうしてたばこは、二重三重の構造で肉体とともに心をも蝕むのである。




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