2017年02月04日

マニキュアの恐怖


 以前、テレビのニュースで、明日には大学の入学式に行くという女性を取り上げていて、その娘が手指の爪のネイルアートを美容室でしていた。えらく凝ったネイルアートで一つひとつの爪に立体的な花の模様が微細に描かれていく。当然何時間もかかる。たしか夜の10時ごろからはじめて未明3時4時までかかっていた。ご当人は椅子に座って、爪をいじってもらいながら居眠り。
 そしてめでたく翌日、東海大学に着飾って入学式に臨んでいる映像が映しだされて終わり、だった(東海大のレベルが知れる…)。

 この娘、いったい大学をどういうところだと思っているのか。見た目はまるで銀座のホステスにしか見えない。教授も目のやり場に困るだろう。昔、ミニスカートが流行しはじめた頃、大学では教授たちが太もも丸出しで足を組んで講義を聴く女子大生に困惑していたものだが、すでにそんなことを通り越してしまった。「女子大生亡国論」なる言説も登場したことがあったが、今やそうした勉強する気もない女性に大学が席巻された影響もあって、男子までが途方もなくアホになった。

 さて。今日の話題はこのネイルアートとかマニミュアを爪に塗ることについてである。
 私はどうも変わり者だから、女性の手先にマニキュアが塗られているとゾッとするタチで、むしろ色気を減殺しているとしか思えない。よくあんな気持ちの悪いことができたものだ。
 たぶん西洋の女の真似で始めたことだろうが、心底女はバカだと思う(すみません…)。茶髪、金髪も同じだが。かえって醜くなっているじゃないか。
 茶髪は化学薬品が頭皮から浸透して体のDNAを狂わすと説いたことがあるが、爪とて同じことである。爪に塗った化学薬品が、爪の表面から浸透しないとでも思っているのか?

 別の観点からいえば、爪も外界を反映するものである。例えば冷たいとか痛いとか感じるとは、外界を反映していることなのだ。人体は外界を反映してこそまともに育つし、健康なのであるが、その外界をマニキュアで遮断してしまうのだから、それがどんなに恐ろしいことか。

 例えば、指先にちょっと切り傷ができて、絆創膏を貼ったとする。半日、1日それを付けていると、うっとうしいというか、苦しいというか、ときにはイライラしてはがしたくなるであろう。それは皮膚呼吸ができないとか、外界を反映できないところからくる生理的反応である。

 マニキュアをするとは、そういう体に害になることをやっている。
 ネイルアートとかマニキュアをやれば、爪はボロボロになっていく。若いうちは気がつかないが、じわじわと爪は蝕まれていくし、体も化学薬品が浸透しておかしくなっていくのだ。
 だから不妊になる、生理不順になる、頭が良くならない、腰痛が起きる、体が冷える、不眠…といったような、ご婦人がよく訴える症状が、こういう爪を虐待した結果であるかもしれないのである。

 ネイルアートサロンや化粧品会社の営業妨害を意図しているわけではないが、健康な人生を送りたい人、丈夫な赤ちゃんを生みたい人、頭がよくなりたい人は、爪を塞ぐのはおよしなさい。健康なピンク色したつややかな爪こそ美しいじゃないか。
 それをさらに良く見せたいって…、虚栄心以外の何ものでもない。女心もあるだろうから、まあ年に一度くらいなら良しとしても、毎日会社に塗って行くのは、「あまりに〜も、おバカさん♪」なのだ。

 確かめたことはないが、おそらくピアノやハープ、ギターなどの演奏をするプロはマニキュアはしないだろう。爪がボロボロになったのでは鍵盤は叩けず、弦をつまびくこともできない。
 女子柔道の選手、バレーボールの選手なども、原則的にはマニキュアをできないはずだ。それは激しい運動をするとマニキュアがはがれちゃうから、ではない。爪がボロになったのでは、指先に強烈に力が入れられず、動きも悪くなるはずだからだ。

 学者志望の女性とか医者とかでも、マニキュアをしていたら、その人の実力が十全に発揮されていない、と見るべきである。四六時中マニキュアをしていたら、当然バカになっていく。なぜかはすでに説いたが、爪からの外界を部分的にもせよ反映しないのだからであって、人間の認識は外界の反映で創られるものを、それを意図的にカットするわけだから、認識もボロになっていく。

 外界の反映とは、あくまで実体を通しての反映である。冷たいも痛いも、乾いているも、みな実体の反映である。それで認識が創られるのだ。その実体を反映させる人体の仕組み蔑ろにして、爪なんかどうだっていいとするのは、愚挙、暴挙である。

 会社のOLのレベルなら、あえて意地悪く言うけれど、マニキュアをしてボロになった指先や認識でも、それは務まるレベルだということだ。それでいいなら、別に知った事ではない。
 昔の女性は、雑巾がけなんかをちゃんとやった。あの雑巾を絞る動作が、爪を丈夫にする。それもテキパキをやればなお良い。だから、昔の女性のほうが爪は強かっただろうが、今の女性はみんな爪が弱い。

 室内犬なんかに、マニキュアをする愚かな飼い主がいるようだが、これはもう残酷である。イヌやネコはよく爪を研いでいるが、あれは爪が伸びすぎないようにしているのと、おそらくは爪で木などをひっかくことで丈夫にしているのではないか。本能として。
 こう説いても、女性の方々は爪なんか体のほんの一部なんだからどうってことはない。大げさだ。と思うのであろうか。茶髪も同様に、なにせ髪の毛なんだから、体の一部とはいっても痛みを感じるわけじゃなし、髪が傷んだといってもそこだけの話でしょ、と思うのではないか。
 それはとんでもない間違いである。弁証法を学ばないから、こういうことが平気でできる。
 
 人間の体は脳細胞が、全体として統括しているのである。これは〈生命の歴史〉を勉強してもらいたいが…。単細胞から進化してクラゲになるまでは、脳細胞はなく全体が一体として動いていた。それがなぜ魚類の誕生から脳細胞が現れたか。それは端的に言えば、代謝と運動(手足の)を分離させつつも、同時に統括しなければならなくなったからだ。

 これは例えば軍隊を例に挙げれば、全体としてワーワーと動きながら戦っている分には(クラゲまでは)、脳細胞に相当するものは不要だ。雪合戦を思ってもらえばいい。しかし、近代的な軍隊(魚類以降の動物)ともなれば、砲の陣地があり、左翼から陽動作戦をし、右翼から突撃し、飛行部隊が空から援護するみたいな作戦を取らねばならないのだから、それら別々の活動を統括する「脳細胞」に相当する司令部がなければ機能しない。

 われわれの脳細胞は、かかる軍隊における司令部に相当する。その例でわかっていただきたいが、もし軍隊の作戦中、ある小隊が敵が目の前で油断しているからといって勝手に突撃したり、あるいは逃げたりしたらどうなるか。軍隊全体にとんでもない影響が出る。
 爪にマニキュアを塗るとは、そういうことだ。作戦中の軍隊のなかで、一つの勝手な小隊が突然怖くなって敵前逃亡をするようなものだ。司令部(脳細胞)は、軍隊全体を統括しているのだから、一部の崩れは、それこそ「蟻の一穴」で、全体の統括が狂わされる。

 全体の統括が狂わされると、若いうちはなんとかまとめることができても、年をとるほどに、今度は体の中の最も弱い部分に障害が出てくる。だからマニキュアが原因で、回り回って腰痛だの不妊だのとして発現しないとも限らないのである。




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2017年02月03日

日本式楽観主義の勧め


 チャンネル桜の「平成29年新春特別対談 日下公人氏と語る」(1月3日付)をYouTubeで見た。
 いつもながら、日下氏の話だけを聞けばいいのに、聞き役のはずの水島聡が出しゃばってああだこうだと世界情勢を分析したがるのを聞かされるのは苦痛だった。水島がひっこまないとチャンネル桜はやがて潰れるだろう。

 40分ほどの番組だったが、日下氏の話はあっさりしていて、最初の5分でほとんど言いたいことは尽くしていた。
 面白かったので以下に私がまとめたものを提示する。世界情勢にどんな印象を持っておられますか?との問いに対してだ。

     *     *
 (引用開始)
 今までは、西側と東側の対立とか、先進国と後進国とか軸をとってなるべく世界をまっ二つに切ることが分かりやすいとされてきた。二分法に入れたら後が話しやすいからと。でもそうもいかなくなってきた。
 まっ二つでなければどういうやり方(国家のありよう)があるかと言えば、そのなかから出てきたのが日本とかインドとかだった。あるいはトランプの主張はもっと簡単だった。アメリカ国民は二分法は疲れた、でもこれならいいじゃないかとトランプを選んだ。

 その他は、支那の始末に世界が困っているとか、アメリカにああいう変わった大統領が出てきたとかがあるが…。アメリカ人自身がああいう大統領を支持していることが表に出てきた。これからのアメリカのいくべき方向をアメリカ人自身がわかってきたからではないか。
 EUも訳がわからなくなった。プーチンも世界を見渡して話ができる相手は日本の安倍首相だけになっている。

 そうした変換点にたつ時代にあって、日本はおどおどしてはいけないということだと思う。
 世界中が安倍さんが長期政権になって、世界のリーダーと認めるようになっている。
 以前は日本といえば、日本を卑下するする人が賢い人、日本を褒める人はバカと決めつける、そういう傾向はもう終わるでしょう。

 今年は世界で大戦争が起きると言う人がいるが、私は全然そうは思わない。なぜなら日本がちゃんとしているから。安倍さんは世界中を歩き回っているが、ほとんど「発言」はしていない。いうなれば平和をお祈りしているだけ。実際安倍さんが歩いたあとは静かになっている。安倍さんは余計なことをガチャガチャ言わない。
 
 安倍さんはお祈りして歩けばいい、それは天皇がなさっていることと一緒だ。
 とにかくそれで日本人は安心するし、外国ですら不思議に安心するのだから。安倍さんが悪意を持って外遊しているとは、さすがの支那や朝鮮も本音では思っていない。世界中が日本がまた侵略するとは考えていない。

 日本が世界を救うのだから安心してたらいい。そして世界に言うべきは日本の真似をしろと。そうすれば結局、幸せになれるぞ、と。
 支那が軍事侵出しているが、結局消えていくだろう。なぜなら支那には根本がないからだ。共産主義が根本だったのに、もう何も言わなくなっちゃった。周囲の国から取り上げるだけ。

 だがそうやっているとしだいに支那包囲網ができてしまう。そうなればそれらの国々は日本中心が良いと言い出す。
 (引用終わり)

     *     *

 これが新春特別対談で日下氏が言っていることだ。シンプル、簡潔。言われてみれば、なるほど、と思わされる。なんやかんやと個別の現象にとらわれると、難しいことを言う羽目にはなるが、大づかみに世界を捉えると、こんなものかと思う。
 とにかく、先日も本ブログで書いたが、日本ではマスゴミも評論家も悲観的な見通しだけを言う。卑下する、自虐するのが賢い人とするからみんな暗くなる。

 安倍はバカだの低能だの、やれあれが失敗だ、失政だのとあげつらうことなく、楽観的になってみれば、一番安心できるのは日本であり、経済だって工業技術の面でも実際は日本が世界を牽引する時代になっている。
 それを認めて、今のわれわれの生き方に安心し、世界に日本はいい国です、こうして成功しましたと発信していくことが重要である。

 戦後、ずっと日本はアメリカと軍事同盟を結んでいるから、戦争に引き込まれるぞと、サヨクもメディアも言い続けた。第三次世界大戦に巻き込まれるぞ。財政破綻するぞ、工業力でも世界に負けるぞ、と言われ続けだった。

 媚中・副島隆彦は、明日にも預金封鎖が起きると言い続けてテメエの本を売ったが、大ウソだった。支那が世界覇権を握ると言い続けているが、これも大ウソ。
 そんなことはない日本は優秀だ、大丈夫だ、と言い続けた楽観派が日下公人氏や長谷川慶太郎氏や唐津一氏らごく少数だった。

 あとは悲観派ばかり。悲観論でないと売れない、読まれないというので、本当ならもっと日本も世界も幸せに近づいたはずが、愚劣な悲観論のせいで、遅れをとっている。
 原発一つとっても、もしも原発は危ない、ただちに廃止しろなどと言わずに、みなで知恵を出し合い前向きに原子力で明るい未来を創ろうとなっていたら、技術も今より進歩していて、福島原発のような事故は起きていなかっただろう。
 サヨクの悲観論者に足を引っ張られて、技術開発にブレーキがかけられた面は否めまい。

 歴史に「たら れば」は意味ないかもしれないが、戦前と同様に、日本がアジアで、軍事力も経済力もあるリーダーであったら、朝鮮戦争はなくヴェトナム戦争もなく、満州は独立して繁栄し、支那は共産化しないで済んで、チベットもウイグルもモンゴルも独立して幸せであり、支那自身も失政で何千万人も殺戮しないですんだはずである。

 そのことに次第に世界は気づいてきている。アメリカ主導、白人主導の世界が行き詰まっていることを知るようになった。
 安倍首相が年末に、真珠湾に出向いて慰霊をしてきたとき、日本のメディアは「謝罪するべきだ」と騒いだが、いったいどこまで遅れているんだ?

 世界(特亜以外)は日本がもっと軍事力を持ってくれるのを願っている。経済力も頼りにしている。日本人の精神を学びたいと思っている。
 実際、訪日観光客やビジネス客の数は年々うなぎ昇りである。そして日本人自身も、学校教育で「日本はダメな国だ、悪い国だった」の洗脳を受けても、世界に旅行で出るようになり、それは間違いだったと気づくようになった。

 また、左翼リベラルの連中がメディアを握って日本を貶めていても、ネットの力がその壁を破ってしまった。
 それでも歴史を逆行させようとする勢力がいて、どう転ぶかわからない面はあるけれど、私たちはもっと楽観的に、前向きになるべきだと思う。
 ニコニコ笑って暮らせば、病気も退散すると言うではないか。悲観して苦虫噛んで暮らせば、神も仏も逃げていく。




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2017年02月02日

徴兵制を復活せよ(6/6)


《6》
 前回の最後に「徴兵反対を言う方は、結局自分の感情と問いかけ(的認識)だけを大事にして、反発している」と書いた。ここの説明をより詳しくして本項を終わりたい。

 輸血を拒否することで有名なカルト団体がある。この信者は無知で知的レベルの低い人を集め、主婦サークル、勉強会などを開いていて「子どもたちに戦いのない世界を残すために、まず自分たちが争いごとを止めましょう、日本の一番大きな武力は自衛隊です、これを止めさせて優しい社会を実現しましょう」と話すそうである。

 空手や柔道をやるなぞとんでもない所業らしい。で、それに賛同した人が戦争絶対反対、防衛費削減と言って署名活動をしているそうだ。戦争絶対反対は、社会党だけの専権事項ではないらしい。
 おそらくは支那や韓国あたりが、こうしたカルトを使って日本の軍事力を殺ぎ、大衆をほうけさせる手練手管を駆使していると見られる。
 こいつらの言っていることは100%間違いである。

 話は飛ぶようだが、現代の子は空想の世界を怖がるよりも、実物を怖がる傾向があるようだ。登校拒否や引きこもりがそれである。友達に苛められるから怖い、となって、引きこもる。カルト教団が、世の中から争いごとをなくしましょう、と言っているのは、これである。苛めが怖い、争いごとが怖い、と問いかける。だから争いごとや苛めをなくせば怖くなくなる、と思い込む。逃げである。

 こうなるのは、個性を尊重する教育のせいだ。個性とは自分の感情に見合う像(対象)は取り入れるが、気に入らない像(対象)は拒絶する。それを周囲も許してしまう。嫌いなのも個性よね。と。
 それで戦争絶対反対となる。苛め絶対反対、暴力絶対反対(だから体罰も反対)になる。苛められたら、やり返せばいいのに、それは怖いから、争いごとはいけないと夢物語でごまかす。争いごとが嫌いなのではなく、戦うのが怖いだけのくせに。戦いが怖いと問いかけているのだ。

 それが発展して自衛隊をなくしましょう、になっていく。あるいは昔の軍隊は全部悪かったにしてしまう。要するに腰抜けの自己弁護でしかない。苛められたら戦えよ、ぐじぐじ言ってないで。
 こういう甘ちゃんのもとに、カルトや周辺国の人間が猫なで声で忍びよってくる。また、こういう甘ちゃんをカルトや周辺国は大衆全体に広めようと画策する。それがまたイルミナティや国際金融マフィアの手口でもある。主権にも主体性にも目覚めさせない。
 それゆえ、私は主権と主体性を取り戻すために徴兵制を導入して若者を鍛えるべきだと言っている。

 認識は感情像であることは、本ブログで何度も説いてきた。対象に問いかけることで、われわれは感情像が形成される。それを個性に任せれば(現在の学校教育がそれであるが)自分勝手な感情像ばかり(問いかけて)創るようになる。決して対象の構造にみあった感情像をつくる努力をしない。

 例えば開高健のグルメを批判した(1月20日)が、開高はうまいものをたらふく食いたいという感情像を創り、それで生きてしまった。グルメばかりやっていたら、癌になるぞという学習はしなかった。グルメをやればその対象の構造に規定されて体は癌化していく。彼はそこを慮ることなく、うまいものはいいと問いかけ、それで創った感情にだけ抱きついてしまった。

 戦争反対、体罰反対をコメントで言って来られる方は、私には自分好みの問いかけ方しかしていないように見える。
 戦争はたしかに良い事は何もないように見える。まして日本ではサヨクによって(あるいはカルトによって)戦争はいけないと刷り込まれている人が多い。

 繰り返し言うが、これは対象(この世界)の構造に見合った認識=像ではない。国家の誕生を説いたときに触れたが、他共同体との対峙が国家の誕生になる。人類は共同体なしには生きられない。つまり社会的存在である。その共同体は必ず、他共同体との対峙になる。それが国家というものの構造である。避けようがない。この構造への問いかけは絶対にしないではないか。

 なぜ国家が他共同体との対峙になるかといえば、一つには動物的な縄張りができる必然で捉えてもらっていいし、もう一つは人間は問いかけ的認識になる、つまり感じ方考え方は千差万別になって絶対に一致しないからだ。それで争いになる。
 その「対峙」は必ずしも戦争に結びつくとは限らない。原始時代は即、戦争になったかもしれないが、人類は悲惨な戦争を幾度も経験して多少は賢くなり、交渉を発展させるように知恵がついた。だから現在は何でも戦争にはならず、国家どうしは外交交渉になる。クラウゼビッツが言ったように、外交の延長が戦争なのだ。
 戦争は避けるべきである。だが外交交渉は廃止するわけにはいかない。
 
 私だって、戦争が好きなのかと問われれば、嫌いだ、反対だと答える。それはまあ普通の感情である。誰でも人は殺したくない、殺されたくない、その感情だ。それをいけないとは言っていないが、それだけ主張するのはナンセンスだ。これは汚い譬えで申し訳ないが、ウンチが汚い、嫌だからと言って、飯を食わないというようなものだ。

 学校の友だちとは仲良くしたい、は、わかる。しかし苛めはなくならないのだ。苛めのない社会などあり得ない。それは国家レベルでいえば、外交がない世界があり得ないのと同じである。
 徴兵、兵役はそのことをしっかり学ばせるためにもある。人間は個人では生きていけないのだ、と。国家の一員として生きるしかない。それを実感できる機会が兵役である。

 すなわち兵士として画一的教育を施すのだ。強引に寄宿舎生活で画一教育を徹底させる。同じ服を着せ、同じ飯を食い、同じ歌を歌い、同じ時間に行動する。挨拶をきちんとさせる、掃除を徹底してやらせる。あとはバカみたいな(?)兵器の手入れの繰り返し。それが否定の否定になって、娑婆に出たときに(兵役が終わったときに)、見事な個性が発揮できるように立派な人間に成長できる。

 こういうことは、やってみなければ理解できまい。われわれの流派の空手にはそういうものがある。経験できる。だから良いものなのだと言っている。
 私がもし今、20歳くらいで、2年間徴兵にとられるとなったら、それは個人的感情としては嫌だなと思うだろう。自由がなくなる。恋人とも別れなければならない。人生の中で無駄な2年間じゃないかと思うだろう。しかし、それを超えるものが兵役にはある、と信じられれば、しょうがない2年の辛抱だ、となるだろう。国民の義務だしな…と。それでいい。軍隊に入ればあとはしっかり教育される。
 
 軍隊というところは確かに天国ではない。かつて野間宏が『真空地帯』で、大西巨人が『神聖喜劇』で描いたように、非人間的な生活であったかもしれない。だが、その「人の嫌がる軍隊」のはずが、今やご老体となった80、90のかつての戦士が、「戦友会」といって、今も和気あいあいと集まって、久闊を叙している。あの何と言うのか、友情というのか…心の絆は、軍隊が野間や大西の描く地獄ではないことの証明である。

 私の父は軍隊経験があった。幸い戦地に行かずにすんだから言えるのだけれど、面白かった話しか聞いたことがない。連隊長の印を偽造して、通行証をせしめたなんて話を愉快そうに語ってくれる。一方で私の高校時代の先生は軍隊は嫌なことばかりだったと怨嗟のつぶやきを繰り返していた。どちらが正しく、どちらかが間違いということはないだろう。要は捉え方しだいなのだ。

 私の父は、みんな軍隊に入ることを嫌がっていたけれど、自分ははりきって入隊したと自慢する。入隊初日に上官から「貴様らで、軍人勅諭を暗唱できる者はいるか?」と問われて、父だけがすかさず挙手しすらすらと暗唱してみせたら(普通の人は軍隊が嫌だから暗唱なんかしてこない)、上官にいたく気に入ってもらえ、お前は優秀だと認められて、3か月の教育召集が終わっても軍隊に残されたという。

 当時は3か月の教育召集が終わると半年もしないうちに再招集され、みんな南方戦線に引っぱられ多くが戦死したが、おかげで内地に残され命拾いしたのだった。偶然とは言えるが、父は(嫌なはずの)軍隊を自分の能動的な問いかけを持って捉えようとしたから、軍隊すらが楽しいものとして反映した。その積極さが、命拾いにつながったのだと思う。これを軍国主義者と笑うべきではない。

 私が経験した空手だとて、やっている最中はいわば地獄の練習だったが、振り返ってみればあんなに楽しいことはなかったと断言できる。そういう経験がない人は気の毒としか言いようがない。
 何が言いたいかといえば、自分が関わる対象は客観かつ能動的に関わることであり、前向きに捉えるべきなのだ。それが私が言いたい、まともな問いかけでの認識である。

 だが徴兵は無駄だ、意味がない、悪だと主観で問いかければ、それはそのようにしか反映してこない。
 徴兵制復活も、かくのごとくに前向きに、能動的に捉えなければならない。



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2017年02月01日

徴兵制を復活せよ(5/6)


《5》
 国民皆兵にすれば経済衰退も考えられる、という意見もある。20歳くらいの青年が兵役につくことをもって、労働力が減り経済衰退すると言いたいのかもしれないが、私はかえって青年が健康になるし、組織につくすことを学び、集団力が発揮されるようになるから日本の生産性はあがると思う。「損して得とれ」である。

 「戦争は一部の指導者と財閥が金儲けのためにやるものです。どんな事があろうがやってはいけない」
 これも冒頭に述べたように、言われることはよくわかる。それに限定するならば、私とて戦争に反対である。当たり前だ。

 「アメリカ追従での改憲及び徴兵制は危険すぎる。国防のためですらないのに、とばっちり戦争で日本の若者を死なすなよ」と言う方もいるが、徴兵と言っただけでどうしてそこまで飛躍するのか。私もブログでアメリカ追従での改憲と徴兵制は反対だと言っている。

 だからといって、日本は軍隊を持つべきではないと飛躍するのは、かつての社会党(現社民党)の主張と同じだ。社会党=社民党は北朝鮮や韓国、支那と組んで日本を衰退させようとしてそういう愚劣なキャンペーンを張ってきたのだ。だからさすがに日本人はそんな馬鹿げた主張に耳を貸す人がいなくなった(まだいるが)。

 戦後、戦争絶対反対を主張してきた人たち、なかんずく社会党や共産党、朝日新聞、NHK、岩波書店の連中は、日本国民の利益や主体性よりも共産国(ソ連、中共、北朝鮮)や韓国の利益のために、再軍備反対を言ってきたのだ。彼らはソ連や中共などに指示されて、日本の軍事力や日本人の主体性を殺ぐことを狙いとしてきたのは事実である。日本がまともになり軍事力を持てば、ソ連や中共に不利になるから、脅威になるから、それを阻止するために「戦争反対」「再軍備反対」「旧日本軍が侵略し、悪逆非道をやった」と宣伝してきた。

 なにも平和を望んでのことでも、日本人を戦場に送らないためでもなかった。ただソ連、中共、韓国などが有利になるがため、それが目的だった。それに自衛隊自身も、世の中に戦争絶対反対の声があれば、自分らは危険な戦地に行かずにすみ、のうのうと税金で食っていけると思ってきた。これぞ真相である。その社会党、共産党の宣伝に騙された人がいただけであった。

 「人間形成のための訓練なら別に徴兵ではなくても、学生の社会活動なり方法はいくらでもあるのではないですか」と反論されていることに対しては、これはもうさんざん書いた。しかし「結局、国民が利口になるしかないですね」という意見には賛成である。私にとっては、徴兵で誰もが軍事知識を持ち、銃くらい撃てる実力を持つことを含めて「利口になる」べきだと言っているのだ。利口の中身が問題である。

 一つ二つ補足しておけば、以下のようになる。
 われわれは小学校のときから、知識習得で育てられる。実体にからめて学習する機会はほんのわずかで、それも中学、高校と上級学校へいくほど知識オンリーになる。例えば生物でいえば、対象の例としてアサガオがある。小学校ではアサガオを栽培させて日記をつけさせ、アサガオという実体を生で実感して理解する学習がなんとかなされる。

 それが、中学、高校に行くと、アサガオを見た事もないのにその成長過程を本だけで教えられ、暗記させられるような教育になっていく。アサガオは実体であって、知識ではないのに、いわば本を眺めるだけで生物を味わった気分になって大学へ進学する。これは空手をやったことがないのに、空手の写真だけ見て自分は空手を知っていると思うようなものだ。

 そういう実体抜きの知識習得を勉強だと思って、生の実体を味わえないアタマになる。そうでなければ大学は合格しない。これが「対象の構造に関わることを拒絶するアタマができあがる」とわが流派では解かれる。乾電池を作ったこともないのに、電気がわかったつもりになって、電気抵抗の答えは出せるアタマである。
 こんなアタマのまま大学を卒業して会社に入る。だから新入社員は使いものにならないと、どこの会社でも嘆いているではないか。それも一流大学出ほど使いものにならない。

 現に、私が昨日のブログで、インカ帝国やチベット、イラクなどの歴史を学ぶべきだと説いたけれど、世界史の学習をみんな知識で暗記しただけだから、白人キリスト教徒どもが非道のかぎりを尽くして、世界中の民族を殺してきた歴史が理解できていない。そうやって虐殺されてきた人々の立場に観念的に二重化できない。
 歴史が一方で血なまぐさい死臭を放っていることがわからない。何の事件は何年におきた、そのときの国王は誰で、次の王朝は何で…と暗記しただけではないか。これが人間の歴史を実体的に捉えていない証拠である。長年の知識習得のせいで、対象を実体的に捉えられないアタマになっている。

 それをせめてまともな実体を反映できるアタマに創りかえる人生最後のチャンスが20歳前後での軍隊教練過程だと、私は説いてきた。われわれが関わる対象はアサガオであれ恋人であれ、乾電池であれ、生身なのであり、色もあれば匂いもある、それになにより運動している。すなわち発展したり変化したり、腐ったり、好きになったり嫌いになったり、もろもろ変化(運動)している。その構造を捉えたものが弁証法である。対象の構造に弁証法性があるのだから、われわれが対象の構造にみあったアタマを創るには、弁証法が必須なのはそういうわけがある。

 弁証法などとむずかしいことを言うほどのことはなくても、われわれは外界の生々しさやみずみずしさを捉える教育を受けずにきて、知識ばかりの無味乾燥なものを受け入れるアタマになってしまうのだ。それをまともな脳細胞に変えるチャンスはいったいどこにあるのか? 徴兵制より教育にカネを使えという方には、教えてもらいたいものだ。どこに外界を正しく認識させる教育過程が存在するのか。それは兵役ならば可能ではないかと、私は提案している。

 軍隊ならば非常心の養成にもなる。平常心と非常心の違いについては特に説明しなくてもわかるだろう。詳しくは南ク継正先生の著作を読んでいただきたい。

 12月26、27日にわたって紹介した機長M君の「制服雑感」はその非常心の養成を説いたものである。それにM君が説いたように、自衛隊では外出時に、爪は切ったか、ティッシュは持ったか、身だしなみはいいか、などチェックされるとあったが、あれこそが実体に関わっての学習である。士官たるの精神を本で読むだけではなくて、実体を通して学習しているのだ。ミスをすれば殴られるという緊張感のなかだから、なおさらいいのだと説いている。現今の学校教育ではそれは望めない。なにせ体罰禁止なのだから。

 私の提案に反対するのなら、かかる教育・学習の中身をふまえて反論されるべきではないか。
 私が徴兵制を敷くべきだと言っている中身は、認識の形成過程の構造を踏まえている。弁証法でいえば、物事には必ずプラス面とマイナス面があるのだから、徴兵制にもプラスとマイナスがある。その両方に目配りしたうえで、論を述べているのだ。

 マイナス面だけ見れば、いかにも戦争は悲惨で、人が死に、あらゆるものが破壊される。だが、古今の戦争を見ても戦争があったからこそ人類の歴史が発展したというプラス面がある。とにかく絶対反対で聞く耳は持たぬというあり方は、まさに対象の構造をちっともわかっていない人間の戯言だ。マイナスはできるだけ少なくしてプラスを伸ばすことこそ弁証法活用の要である。
 
 反論ばかり取り上げてきたが、「今回の記事、しびれました。もし実現したらと思うと、どれだけの若者がどれほど立派になり、社会が変わるかと、ドキドキします」と言ってくださった方もいるのだ。きちんと私の文章の主旨を捉えてくださっている。
 私に徴兵反対を言ってきた方は、結局自分の感情と問いかけ的認識だけを大事にして、反発しているように見える。 

 ベンジャミン・フルフォード氏のブログ(12月27日付)に以下の文言があった。
 「先日、外国特派員協会で9.11の記者会見を提案しました。支援するジャーナリストが圧倒的に多かったのですが、中には猛烈に反対した記者も何人かいました。『馬鹿げてる』、『頭がおかしい』という言葉だけで、理由を述べない。「事実をもって議論しよう」というと皆黙って逃げてしまう。」

 9.11の記者会見(アメリカの陰謀だとするものだろう)に猛反対する人に反応は、戦争絶対反対を言う人に似ている。徴兵制なんか馬鹿げている、軍備復活を言うなんて頭がおかしい…そういう反応が返ってくるからだ。9.11がイスラム勢力のテロだと信じている人も含めてこういう人は、自らの「問いかけ的認識」を疑ってみることをしない。自らの問いかけを事実で、論理で検証しない。それでも今回とりあげた方々は、それなりに自分の意見を述べてこられたからお答えした。いくつかの反発はただ「お前は馬鹿か」だけだった。

 戦争反対も結構だが、「何がなんでもいけない」というのでは、議論にならない。知事時代の東国原が一言言っただけで、発言する事自体を封じ込めようとするのは、ルール違反である。東国原発言を軍国主義復活に通じるから撤回しろと言う人も、ルール違反だ、彼はそうはいっていない。言ってないことにまで飛躍、敷衍して罵倒するのはアタマが狂っている。

 相手の意見は十分理解し、論理で反論するべきである。「お前の意見のこういうところは、かくかくの理屈で間違いだ」というように反論はするべきだ。聞く耳は持たぬ式の反発は幼児性である。私は少なくとも、それなりに意を尽くして自分の論を展開している。それを単純にバカ、アホと罵るだけの方には何度も書くが、返事はしない。私と異なる意見でも、きちんと説明してくだされば、対応する。


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2017年01月31日

徴兵制を復活せよ(4/6)


《4》
 ここまでの「徴兵制を復活せよ」に関して、いくつか反論をいただいた。それにお答えしていきたい。

 「改憲して徴兵制なんて導入したら、ロックフェラーの金儲け戦争に日本の若者が強制連行される」や、「徴兵制を復活させれば、権力者にとって都合の良い駒が増えるだけ」という批判。それは私もブログで言及してある。おっしゃるとおりの危険性はあるが、それと徴兵制は別問題である。

 だいいち、若者が戦争に引っ張られなくとも、日本人全部、ないし世界中の人がロックフェラー、ロスチャイルド、イルミナティの、あるいは権力者の都合で貧しくされ、病気にされ、働かされているではないか。それはいいのか? その文句を控えておいて、軍隊だけがいけないと?

 国際金融マフィアの金儲け戦争に日本人が利用されると言うが、現在日本にちゃんとした軍隊がないのも、国際金融マフィアの策謀によって、ではないか。あればあったで、なければないで、利用はされる。端的には、軍隊がないから日本人は精神の牙が抜かれた。国際金融マフィアに抵抗しようという気概もなし。癒されることばかり求める。だからいいようにあしらわれる。そういうことを「徴兵制を復活せよ」で縷々述べてきたのだ。

 私が徴兵制や軍隊が国家に必要だと説いたのは、それが国家にとって必然だからで、他共同体との対峙こそが国家の原基形態だからである。国家論を多少なりとも学べば、国家にとって軍事力は必須であることが理解されるのに、再軍備反対、徴兵制復活反対の人は、国家論をまじめに勉強していないようだ。

 家だって戸締まりをして外出するでしょう。現金は金庫にしまうでしょう。警察は必要でしょう。海上保安庁も必要でしょう。税関も必要でしょう。暴漢に襲われたらかなわぬまでも防御しようとするでしょう。
 と、こうした例でわかるように、個人でさえ、あるいは小社会でさえ、他人を100%信用して無防備でいるわけがない。国家もそうである。

 安全保障抜きに国家は成立しない。だから徴兵制であれ志願制であれ、どの国にも軍隊がある。建前上、軍隊がない国は日本だけだ。これを異常といわずして何というのか。ロックフェラーの手駒にされるとか、権力者の都合で戦わされるという以前の問題だと、再三説いてきた。
 
 このことは、われわれが空手をやっているというと、きっと尋ねられることがあって、「暴力はいけないのではないですか」とか「なにも暴漢相手に闘わなくても、逃げればいいし、喧嘩しなければいいんじゃないですか」「危ないことをしなければ、危険な目にはあいませんよ」とか、私に言わせればずいぶんノンキなことを言う人がいる。あきれてモノも言えない。

 新聞の三面記事を毎日賑わす陰惨な事件は、自分には絶対に起きないと思い込んでいる。冗談じゃない。昨日殺された人も、一昨日殺された家族も、自分にだけはそんな目には合わないと信じていたはずだ。もし霊媒者にでも尋ねられるものなら、死者に聞いてみろって。自分はまさか殺されると思っていませんでした、と死者は答えるだろう。

 「徴兵制の資金源はどこから出ると考えているのか?」とか「兵士一人維持するのにも国民の税金が使われます。同じ税金を使うなら教育に使いたい」という指摘もあった。戦後、「日本人は安全と水はタダだと思っている」と名言をつぶやいた人がいた。たしか山本七平氏だったかと記憶している。安全にカネはかかるのだ。それと無駄遣いはやめろ、という話とは別である。それでは反対するあなたは、戸締まりのためのカギ代をケチるのですか? カネがかかるからドアもつけませんか?

 軍隊維持にはたしかにカネはかかるが、言ってみれば必要経費である。敵が(周辺国が)次々に重武装してこちらを攻めようと狙ってくるのだから、対抗上こちらも重武装するしかあるまい。こちらが裸になっていたら、向こう様は気の毒だからとか平和を愛する国民だからと、攻めてこないとでもいうのか? 近年は支那人や韓国人の強盗が入国してくる。北朝鮮は総連をつかって日本をダメにしようと謀り、拉致もしている。

 軍隊があってこそ、それが周辺国にとって脅威にもなるからこそ、平和が保たれているし、外交交渉が成り立つ。私は日本も核武装すべきだと思っている。それが世界の現実である。嫌も応もない。

 堂々、こういう人もいる。
 「私は戦争絶対反対論者です。よい戦争、仕方がない戦争などありません。戦争はどちらの国も国民が苦しむだけなのです。軍隊は持つべきではありません。しかし、攻めてこられたらどうするのか?私は個人武装を提案します。国民全部が武装しておく事です。全員が闘います。全員がゲリラになります。勝ちはありませんが絶対に負けません。究極の軍隊は国民全部が闘う事です」

 この人は、かつてのインカ帝国がどうやってスペインに滅亡されたか知らないのだろうか。インカだけではない、南北アメリカ、アジア、オーストラリア、アフリカなど各地で白人キリスト教徒によって、原住民の共同体や王朝は滅ぼされてきた。みんなまともな軍隊をもっていなかったからではないか。

 時代が違うということはない。今もアメリカやロシア、ヨーロッパの国、それに中国によって世界は好き勝手に痛めつけられているではないか。パレスチナもイラクも、アフガンもチェチェンもスーダンもウイグルも…。
 インカ帝国を例にとれば、彼らは平和俚に穏便にスペインの侵略軍や宣教師を迎えようとしたが、騙され、問答無用で殺戮され、女たちは白人の子を生まされた。戦争絶対反対、の結果はこうなる。チベットは支那に蹂躙されている。

 あるいはオーストラリアの原住民、アボリジニはどうした? 軍事力を持たなかったがために皆殺しにあっている。それでいいのか。日本にもし自衛隊ですらなかったら、アボリジニと同じことになっている。
 だから、現在紛争の耐えないシリアでもスーダンでもチェチェンでもいいから行って現地の人に「戦争をやめなさい。私は戦争絶対反対論者だ。よい戦争、仕方がない戦争などない。戦争はどちらの国も国民が苦しむだけだ。軍隊は持つべきではない。」と、そう言って説得してごらんなさいな。

 自分の同胞、家族、恋人、息子らが白人や中国の侵略者に殺されて、やむにやまれず武器をとって戦っている人たちが、納得して武器を捨てるとお思いか?

 それから他国に攻められたら、ゲリラになって闘う、個人で武装する、とおっしゃるが、何も軍事をご存知ない人がどうやって闘うというのか。ゲリラは便衣兵ともいって、国際法上まったく保護されない。正規軍なら投降することは一応許されるが、ゲリラはどうされても文句はいえない。つまり国際法上は違法な戦い方であり、単なる強盗とみなされる。

 だいいち、どうやって武器弾薬を仕入れるのです? 竹槍で抵抗しますか? 敵は機関銃やら戦車やら、ミサイルやら戦闘機やら、ありとあらゆる高性能の武器弾薬を大量にもち、よく訓練された兵隊がそれをもって侵攻してくる。軍事知識もなく、銃の扱い方すら知らない人が、どうやってゲリラになれるのか? 戦争はそんなに甘くはない。まして日本は島国である。どこへも逃げ場がない。

 かつてはヴェトナムが、今は自称イスラム国やパレスチナがゲリラ戦法をとっているが、それは陸つづきの支援国が周辺にあるからであり、シリアであれば周辺の同じ宗教の組織が支援する。しかし日本にはそういう国はない。仮に支那が攻めてきたら、同情して韓国や北朝鮮、台湾が支援してくれるとでも思うのか? そんなことが起きるわけがない。

 むしろ、日本人名を名乗ってなりすましている朝鮮人が多いだけに非常に危険である。ゲリラ組織に参加したいと言ってきた男が、日本名だから同胞だろうと思ったら、朝鮮人スパイだったという事例が必ず生じるはずだ。ゲリラの組織を維持することも、素人にはできない話である。敵のほうが訓練されているのだから。

 よくナチスの映画なんかでは、レジスタンスがやすやすと敵陣に潜り込んで破壊活動に成功する物語をやっているが、あんなものはフィクションである。敵が黙ってゲリラの跳梁を許すとでも思っているのだろうか。きちんと正規の軍事訓練をやったものでなければ仮にゲリラでもやれるものではない。
 
 何度も八切止夫の日本史を紹介したが、白村江の戦いでやぶれた日本軍は支那進駐軍に占領されたのだ。支那進駐軍が貴族となった藤原氏である。日本の原住民は支配者に従順になって仏教に帰依させられ奴隷にされた。抵抗した者は、山の奥地に逃げ込んだあげくに殺戮されたか、捕虜収容所である「別所」とか「印地」といわれる土地に囲い込まれた(被差別部落)。

 あるいは平安時代の天皇と藤原氏の失政で、地方の国司が過酷な税を取り立てて、困窮した百姓らが各地の寺社に逃げ込み、「無縁」の人となって仏教を盾に、寺社都市を形成し、生き延びたのである。貴族や武士の対抗勢力になった。これが日本の産業、文化、経済を育てたのだ。

 そういう本当の日本史を知っておかなければいけない。本当の歴史は隠されているのだ。なぜだと思いますか? これでも勝ちはないが負けもないなどと言えるのか。
 個人で武装すると夢物語を言う前に、例えばフィリピンではどうだったか、アイルランドではどうだったか、クルド族はどうなったか、アメリカインディアンは…と、世界の(隠された)歴史を勉強されることである。



posted by 心に青雲 at 04:00| 東京 ☀| Comment(0) | エッセイ | 更新情報をチェックする